八条実俊
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時代 | 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 嘉禎3年12月18日(1238年1月5日) |
官位 | 従三位・非参議 |
主君 | 土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇 |
氏族 | 滋野井家庶流八条家 |
父母 | 父:藤原公清、母:源資賢娘 |
兄弟 |
藤原実嗣、実俊、河鰭実隆、実誉、 実秀、実秋、公方、実増 |
妻 | 佐々木定綱娘・春華門院大進 |
子 |
公有、実清、藤原公世、公員、道源、 公秋、良寛、中山忠定室 |
八条 実俊(はちじょう さねとし)は、鎌倉時代前期の公卿。参議・藤原公清の長男。母は権大納言・源資賢の娘。官位は従三位・非参議。
家系
[編集]実俊は閑院流滋野井家の分流である八条家の出身である。弟である実隆の年齢を考慮すると、40歳前後で死去したものと考えられる。弟・実隆の系統は参議を極官とする河鰭家[1]として続いたが、実俊の系統は非参議公卿の家格で室町時代まで存続した。なお、『徒然草』第45段に登場する藤原公世は実俊の子である。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 建仁3年(1203年)1月5日、叙爵[2]。
- 元久2年(1204年)4月10日、侍従に任ぜられる。
- 建永元年(1206年)1月6日、従五位上に昇叙[3]。
- 承元2年(1208年)12月9日、左少将に任ぜられる。
- 承元3年(1209年)1月13日、相模権介を兼ねる。
- 建暦元年(1211年)1月5日、正五位下に昇叙。
- 建保元年(1213年)1月6日、従四位下に昇叙。
- 貞応元年(1222年)1月6日、従四位上に昇叙。同年11月3日、右少将に転任。
- 貞応2年(1223年)1月27日、播磨介を兼ねる。同年2月1日、正四位下に昇叙。
- 嘉禄元年(1225年)11月7日、右中将に転任。
- 安貞2年(1228年)2月1日、伊予介を兼ねる。
- 寛喜元年(1229年)9月24日、父・公清の喪が明けて復任。
- 天福元年(1233年)1月6日、従三位に叙される。
- 嘉禎3年(1237年)12月18日、卒去。