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八木治郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
やぎ じろう
八木 治郎
プロフィール
出身地 日本の旗 日本
生年月日 (1925-04-20) 1925年4月20日
没年月日 (1983-04-18) 1983年4月18日(57歳没)
最終学歴 東京大学文学部中国文学科
職歴 NHK→フリー
活動期間 1949年 - 1983年
ジャンル アナウンサー、司会者
出演番組・活動
出演経歴私の秘密
万国びっくりショー
人に歴史あり
ウィークエンドモーニングショー
八木治郎ショー
八木治郎ショー・いい朝8時
野生の王国

八木 治郎(やぎ じろう、1925年大正14年〉4月20日 - 1983年昭和58年〉4月18日)は、日本アナウンサーテレビ番組司会者。元NHKアナウンサーを経てフリー。

来歴・人物

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東京生まれ。幼・少年期を現在の千葉県香取市で過ごした。旧制千葉県立佐原中学校(現在の千葉県立佐原高等学校)から陸軍士官学校を経て1949年東京大学文学部中国文学科卒業。

同年NHK(日本放送協会)に入局。同期入局には小川宏大塚利兵衛福島幸雄穂坂俊明らがいる。熊本長崎勤務を経て、1953年にラジオの『音楽夢くらべ』で本格的にアナウンサーを開始。報道芸能社会番組などを担当。人気クイズ番組『私の秘密』では高橋圭三がNHKを退局しフリーになってからは、後任として1962年から4年間司会を務めた。その頃から派手さはないが、「ムード派の八木」と呼ばれるようになった。

1965年11月にNHKを退局しフリーとなり、翌1966年1月から毎日放送(MBS)制作番組『八木治郎ショー』(1970年1月放送開始)の前身である『ウィークエンドモーニングショー』の司会を務め、民放モーニングショーの先駆的存在となる。その他にも『万国びっくりショー』(フジテレビ)、『人に歴史あり』(東京12チャンネル)他数々のテレビ番組の司会、『野生の王国』(MBS制作)のナレーションなどを務めた。

1983年4月16日の『八木治郎ショー・いい朝8時』出演後、福岡市内の会社からの依頼で、大阪から福岡へ出張。翌17日に市内のホールで開かれたパネルディスカッションのパネラーの1人を務めた。同日夜、中洲生簀料理店で陸軍士官学校の同期生3人との食事中に突然意識を失って倒れ、市内の病院に運ばれたが、クモ膜下出血と判定され、人工呼吸等が施されたものの意識は戻らないまま翌18日の夜に死去した。57歳没。

倒れた日と同じ日に、MBS制作番組『アップダウンクイズ』(TBS系列の人気番組対抗特集としてMBSアナウンサー(当時)の野村啓司とペアで回答者として出演。番組は4月上旬に収録)が放送され、同番組が最後のテレビ番組出演となった。翌週の同番組では、司会の小池清が八木の急逝に関してのコメントを読み上げた。

同月23日に放送された『いい朝8時』の八木治郎追悼特集では、八木の妻の八木一子と小川宏が生出演した。

また、八木の生前に3か月分のナレーションの収録を終えていた『野生の王国』については、そのまま放映が行われ、番組の放送中に「八木治郎氏は4月18日に亡くなりました」との旨のテロップが付された。なお、『野生の王国』は小池が八木の後任ナレーションを務めた。

担当した番組

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NHK時代

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フリー以後

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MBS
TBS
フジテレビ
東京12チャンネル

コマーシャル

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著書

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  • 『話し上手の秘密』実業之日本社 実日新書 1964
  • 『魅力ある話し方』実業之日本社 実日新書 1970
  • 『司会スピーチ入門 :うなずく好感 あふれる愛敬』日本文芸社 1972
  • 人の心をつかむ話し方 : 話し上手・48のヒント』〈Daiwa business〉、大和出版、1980年7月10日。
  • 『八木治郎のスピーチの方法とコツ』西東社 1980
  • 『話しで人を酔わせる 今夜のスピーチの隠し味』ベストセラーズ ワニの本 1982

関連人物

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