八十島親徳
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八十島 親徳(やそじま ちかのり、1873年(明治6年)4月9日 - 1920年(大正9年)3月18日)は、日本の実業家。渋沢栄一の秘書役を務め、渋沢家の「一番番頭」と呼ばれた[1]。愛媛県出身。娘婿に阪谷俊作。
やそじま ちかのり 八十島 親徳 | |
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生誕 | 1873年9月27日 |
死没 |
1920年3月18日(46歳没) 大日本帝国・東京府 |
出身校 |
愛媛県第三中学校(現愛媛県立宇和島東高等学校) 商業素修学校 |
職業 | 実業家 |
肩書き | 渋沢同族株式会社専務取締役 |
配偶者 | 八十島とく |
親戚 |
三男:八十島親義 六男:八十島信之助 七男:八十島義之助 娘婿:阪谷俊作 |
来歴
[編集]1873年(明治6年)4月9日、愛媛県宇和島富沢町(現・宇和島市)で生まれる[2]。旧宇和島藩士八十島行蔵の二男[2]。愛媛県第三中学校(現愛媛県立宇和島東高等学校)、商業素修学校を経て[3]、1894年(明治27年)渋沢栄一が創立に関わった高等商業学校(現・一橋大学)を卒業[2]。同郷の先輩であり渋沢栄一の娘婿であった穂積陳重の推薦により、卒業後直ちに渋沢家元方(家政、事業、資産等の管理執行部署)へ入り渋沢栄一の秘書役となる[2]。1906年(明治35年)渋沢栄一に随行し欧米視察にも赴く、後に栄進し渋沢家理事となる[2]。
1908年(明治41年)に起こった母校高等商業学校のいわゆる申酉事件において調停に尽力[4]。1909年(明治42年)渋沢栄一が営業主、栄一次男篤二が部長を務める澁澤倉庫部が澁澤倉庫株式会社に改組する際には、同社が社長を置かない会長・専務制を採る中、渋沢篤二取締役会長の下で、専務取締役に就任し渋沢栄一の意を汲んで篤二会長をサポートした[5]。
1916年(大正5年)に渋沢家資産管理会社として澁澤同族株式会社を設立する際も、栄一の嫡孫渋沢敬三を社長とし、八十島が専務取締役に就任し渋沢家に関わる諸般の実務を取り仕切った[6]。渋沢栄一が関わった各種事業会社の取締役、監査役を務める傍ら、竜門社幹事や母校の如水会常務理事にも就任。
1920年(大正9年)3月18日死去。
家族・親族
[編集]- 妻のとくは西村勝三の娘[7]。
- 三男の八十島親義は第一銀行常務、澁澤倉庫社長、会長、渋沢青淵記念財団竜門社理事長等を務め、澁澤倉庫社長在任時には第一銀行と日本勧業銀行の合併を仲介した[8]。
- 六男の八十島信之助は法医学者、札幌医科大学名誉教授。
- 七男の八十島義之助は土木工学者、東京大学名誉教授。妻・和歌子は穂積重遠の娘、穂積陳重の孫、渋沢栄一の曾孫。
- 三女の文子は、阪谷芳郎の次男、渋沢栄一の孫である阪谷俊作に嫁ぐ。
- 弟の八十島樹次郎は堀越商会東京本店代表者[9]。岳父は男爵の神尾光臣。
参考文献
[編集]関連項目
[編集]- 渋沢栄一
- 渋沢財閥
- 渋沢敬三、栄一の嫡孫で、渋沢同族社長。
- 阪谷俊作、栄一の外孫で、八十島の娘婿。
- 穂積陳重、同郷の先輩で、八十島を栄一に推薦。栄一の長女・穂積歌子の夫。
- 阪谷芳郎、栄一の次女・阪谷琴子の夫
- 白石喜太郎、渋沢家の秘書。渋沢栄一、敬三に仕える。
脚注
[編集]- ^ 阪谷芳郎「追悼会開会の辞」『竜門雑誌』第396号、1921年、[要ページ番号]
- ^ a b c d e 「八十島親德 (男性)」『人事興信録』第5版 1918年
- ^ 八十島親德 (男性)人事興信録データベース 第4版 [大正4(1915)年1月] (名古屋大学)
- ^ 藤村義苗「追悼の辞」『竜門雑誌』第396号、1921年、[要ページ番号]
- ^ 『澁澤倉庫百年史』澁澤倉庫、1999年、[要ページ番号]
- ^ 『渋沢栄一伝記資料』1969年、[要ページ番号]
- ^ 『人事興信録 初版』(人事興信所、1903年)163頁
- ^ 『第一勧業銀行二十年史』第一勧業銀行、1992年、[要ページ番号]
- ^ 堀越商会東京本店渋沢栄一記念財団
- ^ “渋沢倉庫(株)『渋沢倉庫百年史』(1999.03) | 渋沢社史データベース”. shashi.shibusawa.or.jp. 2023年2月14日閲覧。