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全国自動車競走大会 (1925年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本自動車競走大会 > 全国自動車競走大会 (1925年)
全国自動車競走大会[注釈 1]
(第8回日本自動車競走大会)
開催概要
主催 日本自動車競走倶楽部 (NARC)
開催日 1925年12月6日(日)
開催地 大日本帝国の旗 大日本帝国
東京府東京市深川区 洲崎埋立地砂町
コース形式 仮設オーバルトラック非舗装
コース長 1マイル(約1.6 km)
レース距離 15マイル(決勝レース)
天候 好天気[6]
観客数 約3,000人[7]
入場料 1円均一[4][5]

賞金 500円[8]
結果
優勝 榊原真一(アート・カーチス
2位 堺孝 (オートモ号)

« 第7回大会 (名古屋)
第9回大会 (月島) »

1925年大正14年)12月の全国自動車競走大会(ぜんこくじどうしゃきょうそうたいかい)は、日本東京市洲崎砂町)において開催された四輪自動車レースである。日本自動車競走大会の第8回大会にあたる[注釈 2]

主なトピック

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1920年代最後の開催

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この第8回大会は、日本自動車競走大会としては1920年代最後の大会になったと考えられている。開催地は各所を転々として毎回異なることに加えて、いずれの開催地も劣悪な路面状況に悩まされたため参加者らの不満が高まり それを解消する適当なサーキットが見つからなかったことから、以降、1934年(昭和9年)までの期間はレースは開催されなくなる[9][10]

オートモ号の参戦と活躍

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オートモ号(レース仕様)。市販仕様とは形状が大きく異なる。

この大会では、それまで輸入車を改造した車両で参戦していた白楊社が、自社製の純国産車であるオートモ号をレース仕様のシングルシーターに仕立てて参戦し、大きな話題を呼んだ。

これまでの参戦車両は、日本国内で大幅な改造を施された車両も多かったとはいえ、いずれも米国車をベースとしたものであり、純国産車をベースにした車両の参戦もこのオートモ号が初めてだった。

同車は参戦した各レースにおいても活躍し、予選グループを1位で通過し、決勝レースでは路面に深い轍や大穴ができたことからほとんどの車両が足回りにトラブルを来たして脱落していく中、優勝したカーチス号とオートモ号の2台だけが完走し、オートモ号は初参戦で総合2位に入るという快挙を演じる[11]

純国産車であるオートモ号の活躍は観客を大いに沸かせ、レース後に観客らが白楊社の社主である豊川順彌を胴上げしたと伝えられている[6][12]

会場

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開催地名は第1回大会第2回大会と同じ「洲崎埋立地」だが、両大会で会場として使用された敷地にはこの時点ですでに工場が建っており、この第8回大会では東側に造成された新しい埋立地が会場となった[13]

当初の予定では11月22日(日)に開催予定だったが[1]、雨天となり、ぬかるんだ路面が危険と判断され、11月29日(日)に延期された[2]。そこからさらに12月6日(日)に延期され、開催が実現した。

会場の路面は砂地に近く、もともと柔らかいものだったが[14][注釈 3]、12月6日の開催日の前の数日は天候が良かったため、路面は固くなっており、希望が持たれた[8]。しかし、開催当日の路面は朝は問題なかったが、海抜数フィートに位置する埋立地であることから、午後になって潮が満ちてくるとコースの一部は水没を始め[7][15][16]、ギアチェンジが必要な個所が3か所も増えるという状況となった[15][16]。開催日の前に行われた試走の段階では1周を楽に1分以下で周回できるという予想がされていたが[14][8]、実際のレースでは路面状況の悪化によりその速度を保つことは次第に難しくなっていった。

時間が進むにつれて状況は悪くなっていき、主催者のNARCは、最終レースを当初予定していた20マイル(20周)ではなく15マイル(15周)に短縮して開催することを決断せざるを得なくなった[15][16]

開催に立ち会った警察からも「余程コースの修繕を行わなければ、次回からは許可はむづかしいだろう」と苦言が呈された[5]

内容

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路面状況が劣悪であったことから参加車両の速度は速くなかったものの、開催プログラムは予定通りに進み、いくつかのレースはスリリングな展開となった[15][16]

中でもこの大会で特筆されるのはオートモ号の活躍で、同車は予選の第1レースで1着、もうひとつのレースで4着を獲得して決勝に進み、決勝レースでは100馬力を超える出力を誇る航空機用エンジンを搭載した車両を相手に、10馬力に満たない非力なエンジンを搭載したオートモ号が善戦し、他の車両がリタイアしていく中、安定した走りを見せて2位を獲得した[15][16]。(→#決勝レース

開催された各レースの上位3名にはそれぞれ銀牌が贈られ、決勝レースの勝者の榊原には賞金として500円が贈られた[8]

エントリーリスト

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車番 ドライバー ライディングメカニック 車両名 馬力 補足
3 内山駒之助 (なし) ホール・スコット英語版 200 航空機用エンジン搭載車。
4 丸山哲衛 高根 ロジャー英語版 20
8 内山辰雄 竹尾 チャルマー英語版・マスターシックス 25
9 澤口 矢崎 オークランド英語版 19 1918年型の車両で、この個体はタクシー車両として用いられていた[17][16]
11 森田(憲) 後藤 デビス 25
14 森田一郎[注釈 4] 後藤 ピアース・アロー 50
18 中村 若林 チャンドラー英語版 30 開催前の記事では「関根」がドライバーとして報じられていた[8]
20 藤本軍次 柳本 アート・ダイムラー 100 航空機用エンジン搭載車。
21 榊原真一 本田宗一郎 アート・カーチス 160 航空機用エンジン搭載車。
22 石川元吉 小林 キャデラック(1922年型)[8] 32
23 松平 石田 オーバランド 18
31 堺孝 (なし) オートモ号 9 一人乗り[注釈 5][注釈 6]。参戦した車両の中で唯一の純国産車両。
Tanaka ロコモビル 出場予定者として名がある[8]。実際に参加したのかは不明。
Sawada キャデラック(1912年型)[8] 出場予定者として名がある[8]。実際に参加したのかは不明。
S. Sakai リーガル 出場予定者として名がある[8]。実際に参加したのかは不明。
出典: [8][6][11]
  • 第7回大会まで参戦を続けていた関根宗次は第7回大会後に自身の車両であるプレミアを手放したため、この第8回大会には出走せず、運営側で参画した[8][15][16]

各レースの1着

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当初の予定では9回のレースの内、5マイルレースが3回、10マイルレースが4回、15マイルレースと決勝の20マイルレースが1回ずつ行われる予定だったが[8]、最後の2レースは距離が短縮されている[15]

レース (距離)
1周 = 約1マイル
1着 2着 3着 補足
車番 ドライバー 車両の登録名(車両名) タイム 車番 ドライバー 車両の登録名(車両名) タイム 車番 ドライバー 車両の登録名(車両名) タイム
第1レース(5マイル) 31 堺孝 オートモ号 5:10 9 澤口 オークランド 5:14.5 18 中村 チャンドラー (不明)
第2レース(5マイル) 20 藤本軍次 アート・ダイムラー 4:48 8 内山辰雄 チャルマー 5:11 14 森田 ピアース・アロー (不明)
第3レース(5マイル) 21 榊原真一 アート・カーチス 4:35.4 3 内山駒之助 ホール・スコット (不明) 22 石川元吉 キャデラック (不明) 1着のレース平均速度はこの日の最速。
第4レース(10マイル) 18 中村 チャンドラー 10:10 9 澤口 オークランド (不明)
第5レース(10マイル) 11 森田 デビス 11:10 23 松平 オーバランド (不明)
第6レース(10マイル) 21 榊原真一 アート・カーチス 11:25.2 4 丸山哲衛 ロジャー (不明)
第7レース(10マイル) 22 石川元吉 キャデラック 11:10.5 4 丸山哲衛 ロジャー (不明)
第8レース(10マイル) 22 石川元吉 キャデラック 14:49.8 18 中村 チャンドラー (不明) 4 丸山哲衛 ロジャー (不明) 4着は松平(#23)
第9レース(15マイル) 21 榊原真一 アート・カーチス 19:22 31 堺孝 オートモ号 22:02.2 詳細は「#決勝レース」を参照。
出典: [17][6][16]

決勝レース

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観衆を失望させないために自らの車両を破損させることも厭わずにレースに挑んだドライバーたちの精神は賞賛に値する。それと同時に、自動車レースをまともに開催できるサーキットが存在しないことを残念に思う。ここには多くの才能あるドライバーがいるのだから、もしそうしたサーキットが東京近郊にあれば、毎年、素晴らしい自動車レースを年に6、7回開催することも可能だろう。[15]

—『ジャパン・アドバタイザー』の決勝レース評(1925年12月13日)

決勝レースの10周目には路面が崩壊状態となり、コースは深い轍や穴をいくつも持つ泥濘と化した[15][16]。劣悪な路面で高速走行を続けたことで、多くの車両が足回りに故障を来たして、リタイアに追いやられることになった[15][16]

トップはアート・ダイムラー(ダイムラー号)を駆る藤本とアート・カーチス(カーチス号)を駆る榊原によって争われたが、両者ともに悪路に苦戦し、車と運転手たちは泥水まみれとなり、路面の窪みによって、ダイムラー号もカーチス号もしばしば四輪中の二輪を宙に浮かべながらの走行となった[15][16]

特に藤本は途中の窪みで跳ね上がった拍子に同乗していたライディングメカニックが車から落ちてしまい、その救助のために停車を余儀なくされた[15][16]

藤本を追うカーチス号もエンジンがミスファイヤを起こしたことで速度を落としたため、藤本はリードを保ってレースを進めた[15][16]。しかし、藤本のダイムラー号もファイナルラップで路面の窪みで後輪車軸を破損してしまい、ゴールまで半周を残して無念のリタイアを喫することになった[7][15]

最終的に生き残ったのはカーチス号とオートモ号で、この2台に共通するのは車重の軽さだった。同じアート商会の車両でもカーチス号はダイムラー号よりも軽かったことから、最後まで走り切ることができた。重量が700ポンドしかなく車重が軽いオートモ号は泥の路面の影響が小さく、ドライバーの堺が轍の少ないコース端を選んで走行したため、安定して周回を重ねた。

国産車オートモ号の活躍は観客たちを熱狂させ、ゴール後、白楊社の社長である豊川順彌を胴上げした[18][注釈 7]

順位 車番 ドライバー 車両 周回数 タイム/リタイア原因
1 21 榊原真一 アート・カーチス 15 19:22
2 31 堺孝 オートモ号 13 22:02.2 ※2周遅れ
DNF 7 藤本軍次 アート・ダイムラー 14 後輪車軸を破損[7][15]
DNF 9 澤口 オークランド (不明) 前輪脱落。
DNF 8 内山辰雄 チャルマー (不明) 後輪車軸を破損[15]
DNF 14 森田 ピアース・アロー (不明) 内部機構に何らかのトラブル[15]
DNF 23 松平 オーバランド (不明) オーバーヒート[15]
出典: [15][6][16]

脚注

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注釈

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  1. ^ 告知の広告でこの大会の名称は11月23日時点までは「自動車競走大会」[1][2]、延期後の11月29日以降は「全国自動車競走大会」[3]の名称が使われている。開催前に白楊社が出した広告では、「自動車大競走」の名称が用いられている[4][5]
  2. ^ 日本自動車競走大会の各大会の数え方には諸説あるが、この大会は開催当時の時点で「第8回」大会として報じられている[1][6]
  3. ^ ジャパン・アドバタイザー』紙はこのレースを報じる記事で「Sand track」であることを繰り返している。
  4. ^ 『ジャパン・アドバタイザー』記事では「Morita Senior」と表記されている[8]
  5. ^ 市販のオートモ号には存在しないシングルシーター仕様
  6. ^ 白楊社の社主である豊川順彌が開催を知ったのは一週間前で、レーサー仕様のオートモ号の製作はその時点から着手したと述べている[16](この「一週間前」が当初の開催予定日の11月22日の一週間前という意味なのかは定かではない)。
  7. ^ 日本自動車競走大会の他の大会でも車主を胴上げした例は記録があるが(アート商会榊原郁三[19]、その場合は優勝した際に行われている。

出典

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  1. ^ a b c 『東京朝日新聞』大正14年(1925年)11月21日・朝刊 6面
  2. ^ a b 『東京朝日新聞』大正14年(1925年)11月23日・朝刊 7面・広告(NARC)
  3. ^ 『東京朝日新聞』大正14年(1925年)11月29日(28日夕刊) 4面・広告(NARC)
  4. ^ a b 『東京朝日新聞』大正14年(1925年)12月3日・朝刊 1面・広告(白楊社)
  5. ^ a b c 『報知新聞』大正13年(1924年)12月6日・朝刊 11面
  6. ^ a b c d e f 第八回自動車競走大会 国産自動車オートモ号出場す、モーター 1926年1月号
  7. ^ a b c d “Sakakibara wins Susaki auto race” (英語). The Japan Advertiser: p. 1. (1925年12月7日) 
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n “Automobile races at Susaki today” (英語). The Japan Advertiser: p. 8. (1925年12月6日) 
  9. ^ サーキットの夢と栄光(GP企画センター1989)、p.19
  10. ^ 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.8
  11. ^ a b 戦前自動車競走史-4 日本自動車競走倶楽部の活動と藤本軍次(岩立)、『Old-timer』No.72(2003年10月号)
  12. ^ 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.21
  13. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「藤本軍次年譜」 pp.268–276
  14. ^ a b “To hold motor races tomorrow at Susaki” (英語). The Japan Advertiser: p. 10. (1925年12月5日) 
  15. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s “Mud ducks race at Susaki track” (英語). The Japan Advertiser: p. 11. (1925年12月13日) 
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o よき時代のよき自動車 (3)、モーターマガジン 1959年3月号
  17. ^ a b “Diminutive Japan-Made Otomo Car Beats Foreign Automobiles Of Greater Power at The Races” (英語). The Japan Times & Mail: p. 21. (1925年12月13日) 
  18. ^ よき時代のよき自動車 (4)、モーターマガジン 1959年4月号
  19. ^ ピストンと共に(アート金属1978)、p.65

参考資料

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書籍
  • アート金属工業年史編纂委員会(企画)『ピストンと共に 「アート金属六十年小史」』アート金属工業株式会社、1978年12月1日。 NCID BN13678932NDLJP:11953538 
  • 桂木洋二 (編)『日本モーターレース史』グランプリ出版、1983年7月25日。ASIN 4381005619ISBN 978-4381005618NCID BN13344405 
  • 杉浦孝彦『日本の自動車レース史 多摩川スピードウェイを中心として』三樹書房、2017年4月17日。ASIN 4895226670ISBN 978-4-89522-667-7NCID BB23601317 
  • 三重宗久『戦前日本の自動車レース史 藤本軍次とスピードに魅せられた男たち』三樹書房、2022年4月20日。ASIN 4895227723ISBN 978-4-89522-772-8NCID BC14200480 
雑誌 / ムック
  • 『モーター』誌(NCID AN0036953X)各号中の記事
    • K・H生(編集局)「第八回自動車競走大会 国産自動車オートモ号出場す 洲崎グラウンドにて開催さる」『モーター』1926年(大正15年)1月号、極東書院、1926年1月、83-84頁。 
  • 『モーターマガジン』誌(NCID AN10092319)各号中の記事
    • 豊川順彌「よき時代のよき自動車 (3)」『モーターマガジン』1959年3月号、モーターマガジン社、1959年3月1日、147-150頁。 
    • 豊川順彌「よき時代のよき自動車 (4)」『モーターマガジン』1959年4月号、モーターマガジン社、1959年4月1日、147-150頁。 
  • Old-timer』各号中の記事
    • 岩立喜久雄「轍をたどる(21) 戦前自動車競走史-4 日本自動車競走倶楽部の活動と藤本軍次」『Old-timer』第72号、八重洲出版、2003年10月1日、166-173頁。 
新聞
第7回大会 (1925年6月・名古屋東練兵場) 全国自動車競走大会
(第8回日本自動車競走大会 / 1925年12月・洲崎埋立地)
第9回大会 (1934年10月・月島4号埋立地)