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兜塚古墳 (横浜市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

座標: 北緯35度32分03.8秒 東経139度39分42.7秒 / 北緯35.534389度 東経139.661861度 / 35.534389; 139.661861

兜塚古墳の位置(神奈川県内)
兜塚古墳
兜塚古墳
位置図

兜塚古墳(かぶとづかこふん)は神奈川県横浜市鶴見区に所在する古墳時代後期の古墳。墳形は円墳だが墳丘の破壊・削平が著しい。梶山古墳群を構成していたとされる。6世紀代に築造された古墳だが、15世紀室町時代)の武将・太田道灌にまつわる伝承がある。

立地と概要

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鶴見区西部に広がる下末吉台地(標高40-50メートル)の、鶴見川南岸に面した台地北端部(地域名では鶴見区駒岡梶山・三ツ池公園・上末吉下末吉諏訪坂にかけて)には、かつて複数の古墳群横穴墓群が分布していた[1][2][3]

同区駒岡に集中域をもつ古墳群は「駒岡古墳群」と呼ばれ、駒岡瓢箪山古墳駒岡堂の前古墳岩瀬山横穴墓群などが知られる[4][注釈 1]

兜塚古墳は、駒岡古墳群のあった丘陵から谷戸を挟んだ東側の丘陵に位置し、尾根筋の北端に立地する[2][1]。かつては兜塚以外にも古墳があったとされ[注釈 2]梶山古墳群と呼ばれる[3]

太田道灌伝説

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15世紀江戸城の支城を構えるのに適した丘陵を探していた太田道灌は、現在の川崎市北加瀬南加瀬に所在する加瀬台(加瀬山[6])に目を付け、そこに一泊した。その際、の中で白鷺が飛来し道灌のを持ち去り、しばらく飛んだところで落下させた。目覚めた道灌はこれを不吉な前兆と判断し、加瀬台への築城を断念した。以後、加瀬台は別名「夢見ヶ崎」と呼ばれるようになり、兜を落とされた場所は「兜塚」と呼ばれた。現在の兜塚古墳の地点がそこにあたるとされる[2]

なお、上記伝承とは無関係であるが、道灌が築城を断念した川崎市の加瀬台(加瀬山)には、加瀬台古墳群(夢見ヶ崎古墳群)が分布している。

現状

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兜塚は、道灌伝承地として知られてきたが、1931年(昭和6年)と1938年(昭和13年)に発掘調査が実施され勾玉や切子玉・耳環などが出土し、径30.2メートルの6世紀代の円墳と判明した。現在は墳丘の大半を破壊されてしまったが、残存墳丘の前に石碑が建てられている[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 鶴見川下流域一帯は、駒岡古墳群以外にも古墳群横穴墓群が散在的に分布しているため、横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センターは「駒岡周辺の古墳群」という、より広い範囲の捉え方でこれらを解説している[2]
  2. ^ 『横浜市文化財地図』(2004年発行)には、兜塚古墳の南西側にもう1基の古墳(消滅)が記載されている[5]

出典

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  1. ^ a b 横浜市歴史博物館 2001, p. 40.
  2. ^ a b c d e 埋蔵文化財センター 2014, pp. 1–4.
  3. ^ a b 鶴見区総務部区政推進課. “第24回:眠りを覚ました古代人”. 横浜市. 2023年6月7日閲覧。
  4. ^ 松崎 2007, p. 105.
  5. ^ 横浜市教育委員会事務局生涯学習部文化財課 2004, p. 7.
  6. ^ 幸区役所 まちづくり推進部 生涯学習支援課 日吉地区担当. “加瀬山”. 川崎市. 2023年6月7日閲覧。

参考文献

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  • 横浜市歴史博物館「駒岡堂の前古墳 他」『横浜の古墳と副葬品』横浜市ふるさと歴史財団、2001年1月27日、40頁。 NCID BA52381705 
  • 横浜市教育委員会事務局生涯学習部文化財課「鶴見区」『横浜市文化財地図』横浜市教育委員会、2004年3月31日、7頁。 NCID BB23262051 
  • 松崎, 元樹 著「多摩川流域および周辺における後・終末期古墳群の特性と地域構造」、佐々木憲一 編『関東の後期古墳群』六一書房〈考古学リーダー12〉、2007年12月25日、103-122頁。 
  • 埋蔵文化財センター駒岡周辺の古墳群」『埋文よこはま』第29号、公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター、2014年3月10日、1-4頁。 

外部リンク

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画像外部リンク
横浜市行政地図情報提供システム「文化財ハマSite」