児玉亮太郎
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児玉 亮太郎(こだま りょうたろう、1872年10月15日[1]〈明治5年9月13日〉 - 1921年〈大正10年〉10月25日[2])は、日本の政治家。衆議院議員(立憲政友会)などを歴任。
経歴
[編集]和歌山県那賀郡粉河村(現在の紀の川市)に、後の衆議院議員児玉仲児の長男として生まれる[3]。同志社卒業後、ミシガン大学に留学し、哲学博士の称号を受けた。帰国後、大阪毎日新聞記者、京都帝国大学法科大学経済学講師、同志社大学講師、北海道拓殖銀行営業部長、富士製紙主事などを歴任した[4]。
原敬の知遇を得、1900年(明治33年)に原が逓信省大臣に就任すると、秘書官に任命された[5]。1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、第14回総選挙まで連続4回の当選回数を数えた[6]。
1914年(大正3年)、第1次山本内閣で内務大臣を務めていた原敬の秘書官に任命された[7]。原内閣が成立すると、内閣総理大臣秘書官に任命され、1920年(大正9年)に鉄道省勅任参事官に転じた。
衆議院議員在任中の1921年10月、東京市麻布区広尾の自宅で腎臓病の療養中に死去した[8][9]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『衆議院要覧下巻 大正九年六月』衆議院事務局、1920年。
- 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 鉄道省参事官児玉亮太郎特旨叙位ノ件(国立公文書館 アジア歴史資料センター)