コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

児玉亮太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
児玉亮太郎

児玉 亮太郎(こだま りょうたろう、1872年10月15日[1]明治5年9月13日〉 - 1921年大正10年〉10月25日[2])は、日本政治家衆議院議員立憲政友会)などを歴任。

経歴

[編集]

和歌山県那賀郡粉河村(現在の紀の川市)に、後の衆議院議員児玉仲児の長男として生まれる[3]同志社卒業後、ミシガン大学に留学し、哲学博士の称号を受けた。帰国後、大阪毎日新聞記者、京都帝国大学法科大学経済学講師、同志社大学講師、北海道拓殖銀行営業部長、富士製紙主事などを歴任した[4]

原敬の知遇を得、1900年(明治33年)に原が逓信省大臣に就任すると、秘書官に任命された[5]1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、第14回総選挙まで連続4回の当選回数を数えた[6]

1914年(大正3年)、第1次山本内閣内務大臣を務めていた原敬の秘書官に任命された[7]原内閣が成立すると、内閣総理大臣秘書官に任命され、1920年(大正9年)に鉄道省勅任参事官に転じた。

衆議院議員在任中の1921年10月、東京市麻布区広尾の自宅で腎臓病の療養中に死去した[8][9]

脚注

[編集]
  1. ^ 『第拾壱回改選 代議士銘鑑』、国華新聞社、1912年。
  2. ^ 『官報』第2773号、大正10年10月28日
  3. ^ 和歌山県那賀郡『和歌山県那賀郡誌 下巻』、1923年
  4. ^ 『衆議院要覧』
  5. ^ 鉄道省参事官児玉亮太郎特旨叙位ノ件
  6. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』255頁。
  7. ^ 『官報』第437号、大正3年1月15日
  8. ^ 『大正過去帳』241頁。
  9. ^ 『官報』第2773号、大正10年10月28日。

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]