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傅燮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

傅 燮(ふ しょう、生年不詳 - 187年)は、後漢軍人は南容、もとの字は幼起。本貫涼州北地郡霊州県(現在の寧夏回族自治区呉忠市利通区)。

経歴

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身長は8尺で、威容があった。若くして太尉劉寛に師事した。2たび孝廉に察挙された。推挙してくれた郡将が死去すると、官を去って喪に服した。184年光和7年)、護軍司馬となり、左中郎将の皇甫嵩とともに張角の反乱軍を討った。

傅燮は宦官の専横を憎んでおり、虞舜四罪を追放した故事になぞらえて、かれらを粛清するよう求める上疏をおこなった。このため宦官の趙忠の讒言を受けた。霊帝は傅燮に罪を科さなかったが、封爵を与えることもなかった。傅燮は安定都尉に任じられ、病のため免官された。

後に議郎に任じられた。ときに西羌が離反し、辺章韓遂らが隴右で反乱を起こしていた。軍役のための徴発があり、民衆の負担は止むことがなかった。このため司徒崔烈涼州放棄論を唱えた。傅燮はこれに激しく反論し、霊帝は傅燮の意見を採用した。

趙忠が車騎将軍となると、黄巾の乱討伐の論功をおこなうこととなり、趙忠は弟の趙延を傅燮のもとに派遣して、万戸侯の位で傅燮を釣ろうとした。傅燮は気色ばんで、「遇と不遇は天命である。功あって論じられないのは時機である。傅燮がどうして私賞を求めようか」と拒絶した。趙忠はますます傅燮を恨むようになった。傅燮は権貴の人々に憎まれることが多く、漢陽太守として出向させられた。傅燮は漢陽郡において羌の懐柔につとめ、屯田を開き、40あまりの営を置いた。

ときに涼州刺史の耿鄙は治中の程球に実務を任せており、程球が不正な利益を貪っていたため、涼州の士人たちはこれを恨んでいた。187年中平4年)、耿鄙は6郡の兵を率いて金城郡王国や韓遂らの反乱軍を攻撃しようとした。傅燮は耿鄙が人心を失っていることを知っていたため、敗戦を予想して、信賞必罰を明らかにするよう耿鄙を諫めた。耿鄙は聞き入れず出陣したが、狄道に達すると部隊に反乱が発生し、まず程球が殺され、次に耿鄙が害された。反乱軍は進軍して漢陽を包囲した。城中は兵が少なく食糧の備蓄もなかったが、傅燮は籠城して固く守った。

北地郡の胡騎数千が反乱軍に従って漢陽郡を攻撃したが、みな傅燮の恩義を受けていたため、城外で叩頭して傅燮を郷里に送ると申し出た。子の傅幹が傅燮を説得したが、傅燮は節を曲げることを良しとしなかった。王国がもと酒泉太守の黄衍を派遣して降伏を勧告したが、やはり傅燮は聞き入れなかった。4月[1]、傅燮は戦没した。は壮節侯といった。

脚注

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  1. ^ 後漢書』霊帝紀

伝記資料

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  • 『後漢書』巻58 列伝第48