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偉関晴光

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

aink= 偉関晴光
基本情報
ラテン文字 ISEKI Seiko
生年月日 (1962-07-02) 1962年7月2日(62歳)
国籍 日本の旗 日本
出身地 中華人民共和国の旗 中華人民共和国
選手情報
最高世界ランク 17[1]位 (2001年2月[2])
利き腕
グリップ 中国式ペンホルダー
ラケット 偉関カーボン
フォア面ラバー 999CHN
バック面ラバー ドライバスマッシュアルティマ
ITTFサイト WTTプロフィール
獲得メダル
男子卓球
中華人民共和国の旗 中華人民共和国
オリンピック
1988 ソウル 男子ダブルス

(陳龍燦と)

アジア選手権
1988 新潟 男子シングルス
日本の旗 日本
世界卓球選手権
2000 クアラルンプール 男子団体
アジア選手権
1998 大阪 男子シングルス
2000 ドーハ 男子ダブルス
■テンプレート ■プロジェクト:卓球 ■選手一覧

偉関 晴光(いせき せいこう、1962年7月2日 - )は、中華人民共和国広西省出身の日本の元卓球選手、卓球指導者。中国広西スポーツ専門学校卒業。株式会社偉関所属。中国名「韋 晴光(ウェイ・チングァン)」。妻は同じく中国出身の元卓球選手で、平成10年度全日本選手権混合ダブルスチャンピオンの偉関絹子(中国名「石 小絹)。木下マイスター東京のコーチ及び台湾男子ナショナルチーム監督を務める[3]

経歴

中国選手時代には、1987年世界選手権ニューデリー大会ダブルス優勝、1988年ソウルオリンピックダブルス金メダル (両者とも、パートナーは陳龍燦) など、輝かしい成績を残した。

1991年に一度現役を引退したが、後に日本で現役復帰。熊本の実業団チーム壽屋→ラララでプレーして日本リーグで活躍した。

1997年には日本国籍を取得。全日本選手権男子シングルス初出場初優勝の快挙を達成。翌1998年も優勝したほか、計4回にわたって同タイトルを制した。以降、国内で数多くのタイトルを獲得。シドニー五輪などの、国際試合の舞台でも活躍を見せた。

2007年の秋田わか杉国体へ、地元開催の秋田県チームとしての出場を最後に、引退した。 2009年より、東京都北区にて卓球場『偉関卓球ランド』を運営している。またJOCエリートアカデミーでコーチを務める[4]

2021年度、JOCエリートアカデミー男子監督を務める[5]

プレースタイル

フットワークを大きく使わずに、バックブロックなどで相手を揺さぶり、相手の体勢が崩れたところをドライブで狙い打った。ドライブの威力は大きく衰えず、特にカット主戦型との対戦を得意とし、松下浩二渋谷浩との対戦に分があった。また、プレーでミスをすると、中国語で哎呀(アイヤー)と言うときがある。

主な戦績

中国時代

1987年
1988年
1989年
  • 世界卓球選手権(ドルトムント大会)男子ダブルス 3位(陳龍燦ペア)
1990年

日本時代

1997年
1998年
  • 第14回アジア卓球選手権(大阪大会)男子シングルス 準優勝
  • 平成10年度全日本卓球選手権大会 男子シングルス 優勝
  • 第3回ジャパントップ12卓球大会 男子シングルス 優勝
2000年
  • 世界卓球選手権(クアラルンプール大会)男子団体 3位
  • 第15回アジア卓球選手権(ドーハ大会)男子ダブルス 3位(木方慎之介ペア)
  • 平成12年度全日本卓球選手権大会 男子シングルス 優勝
  • 第5回ジャパントップ12卓球大会 男子シングルス 優勝
2001年
  • 第6回ジャパントップ12卓球大会 男子シングルス 優勝
2003年
  • 第8回ジャパントップ12卓球大会 男子シングルス 優勝
2004年
  • 平成15年度全日本卓球選手権大会 男子シングルス 優勝
  • 第9回ジャパントップ12卓球大会 男子シングルス 優勝

脚注

出典

  1. ^ 日本国籍取得後
  2. ^ ITTF - World Ranking”. ITTF. 2021年10月20日閲覧。
  3. ^ 卓球王国 チャイニーズタイペイの男子監督、「イーさん」こと偉関晴光さんが語った張本智和の成長
  4. ^ 3か国語操る才色兼備の卓球美少女”. 2020東京五輪 本紙イチ押しヒーロー&ヒロイン. 東京スポーツ (2013年11月3日). 2014年9月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年9月22日閲覧。
  5. ^ 2021年度強化スタッフ”. 公益財団法人 日本卓球協会. 2021年8月20日閲覧。

外部リンク