倉敷福太郎
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倉敷 福太郎[1](くらしき ふくたろう、旧姓・渡部、1878年(明治11年)7月[2] - 1942年(昭和17年)2月4日[3])は、日本の教育家。学習院名誉教授[2][4]。族籍は鳥取県平民[5]。
経歴
[編集]島根県人・渡部桑右衛門の四男[2][4][6]、渡部金三郎の弟[5][7]。鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)・倉敷岩太郎の養子となり[8]、1925年、家督を相続する[1][2][4]。1904年、東京帝国大学理科大学数学科を卒業[1][5][9]。
宮城県立第一中学校教諭を経て後学習院教授に任じ、教務課長を命ぜられる[2][4]。1938年に退官、同校名誉教授の名称を授けられる[2][4]。
人物
[編集]趣味は囲碁、将棋[2][4][6]、野球[7]。宗教は曹洞宗[2][4][6][7]。鳥取県在籍で[2][4]、住所は東京市杉並区阿佐ヶ谷[2][4][6][7]、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町[5]。
家族・親族
[編集]- 倉敷家
- 養父・岩太郎[8](1867年 - ?、煙草製造商[10]) - 刻煙草製造業を営む[8]。住所は鳥取県米子市法勝寺町[8]。
- 養母・スエ(1862年 - ?、島根、糸賀倉市の妹)[1][5]
- 妻・さだ(1885年 - ?、養父・岩太郎の養子[1][2]、山川家の二女[注 1])
- 男・正義(1907年 - ?、東京シヤリング会社員)[2]
栄典
[編集]- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[11]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e 『帝国大学出身名鑑』ク29頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年10月16日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『人事興信録 第13版 上』ク50頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年10月16日閲覧。
- ^ 「倉敷福太郎氏」『朝日新聞』1942年2月6日、2面。
- ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第12版 上』ク60頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年10月18日閲覧。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第6版』く43頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年10月16日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第11版 上』ク68頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年8月18日閲覧。
- ^ a b c d e 『帝国人事大鑑 昭和7年版』ク19頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年8月18日閲覧。
- ^ a b c d 『島根鳥取名士列伝 下』162 - 165頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年10月16日閲覧。
- ^ 『東京帝国大学一覧 從大正5年 至大正6年』学士及卒業生姓名 理学士 数学科248頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年10月16日閲覧。
- ^ 『帝国実業名鑑 第12号(鳥取・島根県之部)』35頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月29日閲覧。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
[編集]- 深田豊市編『島根鳥取名士列伝 下』博進館、1903 - 1906年。
- 東京帝国大学編『東京帝国大学一覧 從大正5年 至大正6年』東京帝国大学、1913 - 1924年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 校外調査会編『帝国大学出身名鑑』校外調査会、1932年。
- 『帝国人事大鑑 昭和7年版』帝国日日通信社、1932年。
- 人事興信所編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937 - 1939年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
- 『帝国実業名鑑 第12号(鳥取・島根県之部)』川口貞良、1983年。