倉岡克行
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くらおか かつゆき 倉岡 克行 | |
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満州紳士録 第3版(1940年)より | |
生誕 |
1909年7月21日 日本 鹿児島県 |
死没 | 1978年7月2日(68歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京外国語学校支那語科・貿易科卒業 |
職業 |
亜細亜大学教養学部教授 満州国協和会首都本部元勤務 満州国協和会開原弁事処主事 開原県青年訓練所副所長 開原街語学院長 軍人後援会開原弁事処副所長 開原協和義勇奉公隊副隊長 盛京時報開原支局長 開原電気・開原市場株式会社取締役 |
家族 | 父親・倉岡岩(在満活動家・実業家) |
倉岡 克行(くらおか かつゆき、1909年(明治42年)7月21日 - 1978年(昭和53年)7月2日)は、日本の実業家。亜細亜大学教養学部教授[1]。満州国協和会開原弁事処主事[2]。開原電気・開原市場株式会社取締役[3]。上郡山倉岡合名会社開原屠殺場無限社員[4]。盛京時報開原支局長[3]。父親は在満活動家・実業家の倉岡岩[4][5][6]。弟・利行は国際信託取締役・龍岡栄吉の養子[7][8]。息子は俳優の岡崎二朗[9]。孫は元俳優、神真都Q会理事の倉岡宏行[10]。
経歴
[編集]鹿児島県士族・倉岡岩の長男として鹿児島県に生まれる。1928年(昭和3年)に家督を相続。1932年(昭和7年)東京外国語学校支那語科・貿易科卒業後、同年満州国執政府諮議室科に奉職[11]。翌年、同内務処技士に就任するも家業管理のため辞職[11][12]。
父の死後は、家業を継ぎ上郡山倉岡合名会社無限社員や開原電気・開原市場株式会社取締役を務めた[3][4]。
戦後、亜細亜大学教養学部教授に就任[1]。1978年(昭和53年)死去[1][13]。
人物
[編集]満州赴任時代、汪兆銘政権の顧問だった影佐禎昭(谷垣禎一の祖父)の秘書官を務めており、影佐の死後に遺稿を整理した[15]。
趣味は中国語、中国劇研究、読書、習字、撞球(ビリヤード)[12]。宗教は神教[12]。
家族・親戚
[編集]- 父・岩(1882年(明治15年)9月12日(または8月12日) - 1928年(昭和3年)4月6日、満州電気株式会社監査役)[3][6]
- 倉岡政利・志計子の長男として鹿児島県薩摩郡平佐村に生まれる[11][15][16]。同県立川内中学校を経て、1903年(明治36年)7月東京外国語学校清語学科を卒業[17]。日露戦争時には通訳官として活躍した。1905年(明治38年)12月辞職し、再び東京外国語学校に入学するも、1907年(明治40年)3月に病のため中退する[6]。同年5月満州に渡航し、得勝台・新台子において南満州鉄道より土地二百数十万坪を借用[11]。その後、農業に従事し、高梁酒(白酒)・豆粕・豆油の製造を営む上郡山倉岡合名会社を設立。後年、開原電気・開原銀行・開原実業信託等諸会社重役を歴任したが、1928年(昭和3年)に数え年48歳で他界した[11]。
- 母・千久子(1890年(明治23年) - 没年不明)[3]
- 弟・利行(1911年(明治44年) - 没年不明、満州炭礦勤務)[3]
- 弟・信行(1914年(大正3年) - 没年不明)[3]
- 弟・孝行(1920年(大正9年) - 没年不明)[3]
- 弟・秀行(1925年(大正14年) - 没年不明)[3]
- 妹・由利子(1913年(大正2年) - 没年不明)[3]
- 妹・美智子(1915年(大正4年) - 没年不明)[3]
- 妹・綾子(1917年(大正6年) - 没年不明)[3]
略系図
[編集]末弘直方 | 山下房親 | 倉岡政利 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
野津鎮之助 | ヒロ子 | 直 | 啓次郎 | コウ | 龍岡栄吉 | 岩 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正田英三郎 | 大原総一郎 | 真佐子 | 啓輔 | 久子 | 利行 (龍岡利行) | 克行 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上皇明仁 | 上皇后美智子 | 修 | 泰子 | 洋輔 | 泰子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
著書
[編集]- 『東南ア華僑の組織』学術選書、1971年。
所属学会
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 『研究者・研究課題総覧: 人文・社会科学編』日本学術振興会、1981年、186頁。
- ^ “近現代人物資訊整合系統”. mhdb.mh.sinica.edu.tw. 2022年4月16日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m “大衆人事録. 第14版 外地・満支・海外篇 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2022年4月13日閲覧。
- ^ a b c “満鉄調査資料. 第160編 上巻 滿洲に於ける邦人の現況 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2022年4月13日閲覧。
- ^ 『日本著者名.人名典拠錄』日外アソシエーツ、1989年、1537頁。
- ^ a b c “大正人名辞典 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2022年4月13日閲覧。
- ^ a b “人事興信録. 第12版下 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2022年4月13日閲覧。
- ^ a b c d “人事興信録. 第14版 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2022年4月13日閲覧。
- ^ “岡崎二朗 - 人物情報・関連映画 - 映画DB”. 映画DB. 2022年4月13日閲覧。
- ^ “「神真都Q」リーダーは俳優岡崎二朗の息子 警視庁公安部が即逮捕に動いたワケ”. 東スポweb. 2022年4月20日閲覧。
- ^ a b c d e 中西利八『新日本人物大系』東方経済学会出版部、1936年。
- ^ a b c “満洲紳士録. 第3版 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2022年6月24日閲覧。
- ^ a b c 『研究者・研究課題総覧』日本学術振興会、1979年、892頁。
- ^ 出典:大阪毎日新聞(1918年12月25日)所蔵:神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫
- ^ a b 『対支回顧録』対支功労者伝記編纂会、1936年。
- ^ 『新撰大人名辞典』平凡社、1937年。
- ^ “神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--”. www.lib.kobe-u.ac.jp. 2022年4月16日閲覧。
- ^ “会員氏名録. 昭和18年用 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2022年4月16日閲覧。
- ^ 閨閥学 (2018年12月5日). “山下家(三井セメント会長・山下啓輔・山下洋輔の家系図)”. 閨閥学. 2022年4月13日閲覧。
参考文献
[編集]- 満蒙資料協会『満州紳士録 第3版』、1940年、頁1351。
- 中西利八『新日本人物体系』、東洋経済学会出版部、1936年。
- 日本学術振興会『研究者・研究課題総覧』、1979年。
- 対支功労者伝記編纂会『対支回顧録』、1936年。
- 大阪毎日新聞(1918年12月25日)所蔵:神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫