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倉八正俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
倉八十太夫から転送)

倉八 正俊(くらはち まさとし、慶長12年(1607年)? - 没年不詳)は、江戸時代前期の福岡藩士。黒田騒動の中心人物。通称は十太夫(じゅうだゆう)。別名は家頼とも。

生涯

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倉八氏は福岡藩士で2百石の足軽の家柄。黒田氏筑前入国以前から仕えていたといわれる。

正俊は、福岡藩初代藩主黒田長政の嫡男・黒田忠之小姓として仕えていた。

この忠之は廃嫡を検討されるほど狭器と粗暴な性格を危惧され、家督を継ぎ藩主の座に就いてからも派手好みで奔放かつわがままだった。そのため、父・長政時代からの重臣たちである「筑前六端城」主[1]との関係は悪く、特に筆頭家老の栗山大膳との対立は激しかった。

一方、忠之は独自の側近集団を組織した。この側近[2]の筆頭が正俊であり、いきなり9千石の加増を受け家老となった。これは家老たちの合議なしでの決定であった。寵愛を受ける正俊の権勢は高まり、家臣らは我先にとこれに付き従った。老臣らは所領減封や改易を受け、万石の大身が激減した[3]

また、軍縮の時代にあって忠之は藩の財政を使って禁制[4]の大型船舶「鳳凰丸」などを建造させ、その指揮は正俊がとった。後に1万石に加増され、藩士300名(200名とも)を付けられた[5]。栗山大膳は正俊に頭をさげ、諫言書を藩主忠之に届けるよう依頼するが、これを無視した正俊は大膳への悪評を忠之に吹き込み、逆に謹慎へと追い込んだ。後に福岡藩は、過度な軍政を問題視した江戸幕府から咎めを受けた。

藩の改易を危惧した大膳は寛永9年(1632年)6月、日田代官竹中重次に「藩主に反逆の企てあり」と上訴した[6]。正俊はその報告を受けると栗山家の屋敷を包囲したという。

正俊らは「大膳は狂人である」との主張を行い、寛永10年(1633年)2月、将軍徳川家光が直々に開いた評定にて正俊と大膳が論争し、忠之は一旦領土を没収されるも改めて与えられ、結果的に福岡藩は安堵となる。敗訴した[7]大膳は盛岡藩に配流、勝訴した正俊も暴政の責任を追及され、老中安藤直次成瀬正虎から高野山へ剃髪・蟄居するよう命じられた[8][9]。また福岡藩は幕府の命令を受け、藩政を元の重臣を中心とした合議制に戻したという。

正俊は蟄居となったが、寛永14年(1637年)、密かに島原の乱に参陣したという。その後の消息は不明。正俊は島原の乱で一揆軍に加わり戦死したと言われているが、創作であるとされる[10]

関連作品

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関連資料

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  • 『福岡県史 通史編 福岡藩 (一)』 福岡県地域史研究所
  • 『國史大辞典』
  • 『栗山大膳、黒田騒動その後』小野重喜、2016

脚注

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  1. ^ 若松城三宅家義(3千6百石と代官領1万石)・黒崎城井上之房(2万石)・益富城母里友信(1万8千石)・鷹取山城手塚光重(不詳)・麻底良城栗山利安(1万5千石)・松尾城中間統胤(2千5百石)を指す。
  2. ^ 他に郡慶成らがいる。
  3. ^ 三奈木黒田家‐黒田一成(1万6205石)のみとなった。
  4. ^ 幕府は大船の建造を禁じていたが、にもかからず忠之は参勤交代用として、建造に取り掛かった。
  5. ^ 藩主が勝手に藩士の新規採用および配置することは幕府の禁じるものだった。
  6. ^ 大膳を警戒した忠之が屋敷を見張らせ、大膳の家から出て来た武士を取り押さえ、調べてみると、大膳の幕府に対する密告書を所持していると分かり、激怒したのが幕府に漏れたとも。
  7. ^ 大膳の言い分は認められたが、上訴の罪を問われた。しかし藩政改革と側近集団追放に成功し、結果的に勝利している。
  8. ^ 「盤井物語」
  9. ^ 一説には、正俊が西ノ丸の酒井屋敷から長谷寺へ帰る途中、忠之から暇を出されたともいう。
  10. ^ 森鷗外の小説『栗山大膳』。
  11. ^ 倉橋十太夫という人物として扱われた。