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侯莫陳相

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

侯莫陳 相(こうばくちん そう、489年 - 571年)は、中国北魏末から北斉にかけての軍人本貫代郡[1][2]

経歴

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朔州刺史・白水郡公の侯莫陳斛古提の子として生まれた[1][2]。7歳のとき、父を喪った。普泰元年(531年)、高歓が反爾朱氏の兵を起こすと、侯莫陳相はこれに従った。中興2年(532年)、高歓の下で韓陵に爾朱氏を破ると、功績により陽平県伯に封じられた。後に白水郡公に改封された。大行台・節度西道諸軍事をつとめた。また車騎将軍顕州刺史に転じた。入朝して太僕卿に任じられた。ほどなく汾州刺史として出向した。安次県男の別封を受け、また始平県公の別封を受けた[1][3]

天保元年(550年)、北斉が建国されると、侯莫陳相は太子太師となった[1][3]。天保5年(554年)8月、司空に上った[4][5][6]。天保7年(556年)1月、爵位を白水郡王に進めた[7]。天保10年(559年)1月、大将軍に転じた[8][9][10]。のちに太尉公となり、瀛州刺史を兼ねた[3]天統元年(565年)4月、太保[11][12][13]に上り、朔州刺史[3]を兼ねた。天統2年(566年)10月、太傅に転じた[14][15][16]。天統3年(567年)8月、太宰に転じた[17][18][19]建州を食邑とし、義寧郡公の別封を受けた。武平2年(571年)4月、朔州で死去した。享年は83。仮黄鉞・使持節・都督冀定瀛滄済趙幽并朔恒十州諸軍事・右丞相・太宰・太尉公・朔州刺史の位を追贈された[1][3]

子に侯莫陳貴楽・侯莫陳晋貴がいた。侯莫陳貴楽は公主をめとり、駙馬都尉となった。侯莫陳晋貴は、白水王の爵位を嗣ぎ、北斉の武衆将軍・梁州刺史となったが、并州が陥落すると北周に降り、上大将軍・信安県公となった[1][3]

脚注

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  1. ^ a b c d e f 北斉書 1972, p. 259.
  2. ^ a b 北史 1974, p. 1910.
  3. ^ a b c d e f 北史 1974, p. 1911.
  4. ^ 氣賀澤 2021, p. 87.
  5. ^ 北斉書 1972, p. 59.
  6. ^ 北史 1974, p. 251.
  7. ^ 北史 1974, p. 253.
  8. ^ 氣賀澤 2021, p. 97.
  9. ^ 北斉書 1972, p. 66.
  10. ^ 北史 1974, p. 256.
  11. ^ 氣賀澤 2021, p. 124.
  12. ^ 北斉書 1972, p. 97.
  13. ^ 北史 1974, p. 287.
  14. ^ 氣賀澤 2021, p. 125.
  15. ^ 北斉書 1972, p. 99.
  16. ^ 北史 1974, p. 288.
  17. ^ 氣賀澤 2021, p. 127.
  18. ^ 北斉書 1972, p. 100.
  19. ^ 北史 1974, p. 289.

伝記資料

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参考文献

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  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4