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佐野浅太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

佐野 浅太郎(さの あさたろう、1948年3月30日 - )は、滋賀県栗太郡栗東町(現在の栗東市)出身で朝日山部屋所属の元大相撲力士国際プロレス所属の元プロレスラー。大相撲時代の四股名日吉山(ひよしやま)で、最高位は序二段62枚目。本名は佐野 実(さの みのる)。身長186cm、体重90kg。

大相撲時代

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瀬田工業高校卒業後、大相撲の朝日山部屋に入門して1965年5月場所に17歳で初土俵を踏む。入門同期に花田満(のちの貴ノ花利彰)がいる。同部屋には兄弟子に三重ノ山(柴田勝久)や二瀬海(サムソン・クツワダ)が在籍し、さらに当時中学2年の鶴田友美も入門しているが、初土俵を踏むことなく辞めている[1]。翌1966年5月場所に四股名を佐野から日吉山に改名したが伸び悩み、勝ち越しは1場所のみにとどまり1967年1月場所限りで廃業する。

プロレス時代

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1968年2月に国際プロレスに入門、豊登道春の付け人を経て、同年5月27日の稚内大会で大磯武相手に佐野 東八(さの とうはち)のリングネームでデビュー[1]。しかし翌1969年6月15日、秋田県中仙町大会で寺西勇と対戦した際、カンガルーキックを左胸に受けて肋骨が折れて肺に刺さる重傷を負う。その後復帰し、9月には豊登の命名で佐野浅太郎に改名。1970年2月に豊登が引退し、佐野はサンダー杉山の付け人になる。5月には東南アジア遠征に参加。翌1971年1月に佐野 先風(さの せんぷう)に改名し将来が期待された矢先、1月31日のデビル紫戦で再び左肺を痛め長期欠場。その後7月に復帰するも7月10日宮城球場大会のエティフィア・ジェラール(稲妻二郎)戦を最後にドクターストップにより引退した。

脚注

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  1. ^ a b Gスピリッツ Vol.37(辰巳出版

外部リンク

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