佐藤兵八
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佐藤兵八 さとう ひょうはち | |
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生年月日 | 1844年 |
出生地 |
日本 備中国上房郡有漢村 (現岡山県高梁市有漢町有漢) |
没年月日 | 1900年6月22日 |
前職 | 高梁銀行頭取 |
所属政党 |
(中国進歩党→) 進歩党 |
選挙区 | 岡山県第5選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1894年9月 - 1897年12月25日 |
佐藤 兵八(さとう ひょうはち、1844年(弘化元年11月[1])- 1900年(明治33年)6月22日[1][注釈 1])は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]備中国上房郡有漢村[2][3][4](岡山県[1]上房郡有漢町を経て現高梁市有漢町有漢)で、酒造業[2]の家に生まれる。幼少期は綱島某(名不詳)から漢学を学び、その後、進鴻渓に十余年師事し塾頭を務めた[2][3]。
農業を営み[1]、家業の酒造業に従事し、その後、醤油醸造業にも事業を拡大した[2][3]。その他、高梁銀行頭取も務めた[1]。公共のために私財を投じ、道路改修、官衙学校の建設、低所得者の救済に尽くした[2][3]。
1890年(明治23年[注釈 2])岡山県会議員に選出され[3]、学務委員、所得税調査委員、徴兵参事員なども務めた[1][4]。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙で岡山県第5区から中国進歩党所属で出馬して当選し[3][5]、その後、進歩党に所属し衆議院議員に1期在任した[1][4]。
晩年は実業に専念し、困窮家庭の成績優秀な青年への育英に尽くした[2][3]。墓所は雑司ヶ谷霊園。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 高見章夫、花土文太郎編『岡山県人名辞書』岡山県人名辞書発行所、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 田中誠一編著『備作人名大辞典 乾巻』臨川書店、1974年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。