コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

佐藤健 (ジャーナリスト)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
さとう けん

佐藤 健
生誕 (1942-11-11) 1942年11月11日
日本の旗 日本群馬県
死没 (2002-12-28) 2002年12月28日(60歳没)
教育 法政大学社会学部卒業
職業 ジャーナリスト
僧侶
活動期間 - 2002年
著名な実績 2002年 毎日新聞連載
「生きる者の記録」
テンプレートを表示

佐藤 健さとう けん1942年昭和17年)11月11日 - 2002年平成15年)12月28日)は、日本のジャーナリスト、僧侶。元毎日新聞社記者

略歴

[編集]

群馬県に生まれる。法政大学社会学部を卒業し、毎日新聞社に入社する[いつ?]毎日グラフ、毎日新聞学芸部、同社会部サンデー毎日編集部を経て、毎日新聞編集局編集委員(専門編集委員)に就任する。1976年(昭和51年)毎日新聞社の長期企画「宗教を現代に問う」(同年、第24回菊池寛賞を受賞)にスタッフとして参加したのを機に仏教を独学。臨済宗妙心寺派の僧となり[いつ?]「新聞記者が雲水になってみた」、「ルポ仏教」などのルポルタージュを発表。その後もインド、チベット、中国、東南アジアでの長期取材を続け、仏教を中心としたアジアの文化の諸相についての多数のルポルタージュ、著作を発表した。

2002年(平成15年)9月、食道の末期がんと診断され東京大学附属病院に入院。病床で自らの死と向き合い、どう生きるのかを問い、同病の人たちと交流した日々の体験を「生きる者の記録」と題して、同年12月3日付の『毎日新聞』朝刊から連載。大きな反響を呼んだ。没後、『生きる者の記録 佐藤健』として刊行された。2003年(平成15年)9月26日、毎日新聞「生きる者の記録取材班」との連名で[注釈 1]、第3回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)を受賞[注釈 2][注釈 3]

著作

[編集]
  • 「プクタル・ムネ寺調査」『第三回高野山大学チベット仏教文化調査団報告書』チベット仏教文化研究会、62-67ページ、1980年。
  • 『マンダラ探検 : チベット仏教踏査』人文書院、1981年、中公文庫 1988年
    高野山大学によるラダック地方の仏教文化調査「ラダック・ザンスカール仏教文化調査隊」(隊長 : 松長有慶)に参加した際の旅行記
  • 『ルポ仏教 : 雲水になった新聞記者』佼成出版社、1986年
  • 『南伝仏教の旅 : 近代化する東南アジアの中の宗教』 中公新書、1989年
  • 『ルポ空海』佼成出版社、1990年
  • 『東欧見聞録 : 民主化の嵐のあとで』毎日新聞社、1991年
  • 『イチロー物語』毎日新聞社1995年、中公文庫1998年、新編2001年
  • 『イチロー : 進化する天才の軌跡』 火の鳥人物文庫・講談社、 2000年
  • 『阿弥陀が来た道 : 百年目の大谷探検隊』毎日新聞社、2003年
  • 『生きる者の記録 佐藤健』(佐藤健と取材班著) 毎日新聞社、2003年(ISBN 4-620-31625-3

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 佐藤以外の取材班メンバーは萩尾信也(社会部編集委員)、中井和久(社会部副部長)、瀬川至朗(科学環境部副部長)、滝雄一(写真部編集委員)の4人。
  2. ^ 選考委員による受賞理由「末期ガン闘病記はとくに珍しいものではない。現役の新聞記者が自分自身の病いを題材にして同時進行ルポを書くという企画に疑問がないでもない。しかし、これが単なる感傷的な読物に終わらなかったのは、当人をサポートする取材班の客観的な視点と多くの読者からの反響と後押しであった。読者をも巻きこんで死生観について考えてみるという双方向的な紙面作りは、新聞の新しい可能性を探ったものといえる。一人の死が生へのエネルギーをも揺り動かすということでこの企画は充分に意味を持った。」[1]
  3. ^ 佐藤の没後、その生き方を後輩に伝えるため、佐藤の著作と同期生17人の著書80冊、佐藤の業績を紹介するプレートなどが、「健さん文庫」として母校の埼玉県立熊谷高校へ寄贈され、2003年(平成15年)4月5日に、遺族、関係者により除幕式が行われた[2]

出典

[編集]
  1. ^ 受賞作品詳細(第3回)”. 石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞. 早稲田大学. 2014年1月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年11月3日閲覧。
  2. ^ “木戸哲「母校に『健さん文庫』埼玉・熊谷高校 同期生が寄贈」”. 毎日新聞 (毎日新聞社): p. [要ページ番号]. (2003年4月6日) 

参考文献

[編集]