佐久山義隆
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 永禄6年5月21日(1563年6月11日) |
別名 | 右衛門[1] |
氏族 | 佐久山氏 |
兄弟 | 義隆、半学姫 |
妻 | 大田原資清娘 |
佐久山 義隆(さくやま よしたか)は、戦国時代の武将。下野国佐久山城主。
出自
[編集]佐久山氏は那須氏庶流。那須氏初代・那須資隆の次男・佐久山泰隆を祖とする。
略歴
[編集]猛将として知られ、その勇猛さを大田原資清に買われ、その娘を室に迎えた。のち資清が死去すると、資清の子・大関高増らに警戒されるようになり、永禄6年(1563年)5月21日、現在の栃木県矢板市にある境が峯にて、うずら狩りを装い誘き出されたところを、大関高増・福原資孝・大田原晴清[2]の三兄弟に殺害され、居城の佐久山城も福原資孝に攻め落とされた[3]。義隆の殺害は資清の遺言だったとされる。
この際、義隆の妹の半学姫も殺害され、義隆の妻も出家し、2人を供養する一生を送ったことから、義隆が殺された境が峯には、義隆と共に3人を供養する地蔵が、後世、義隆の遺臣の子孫たちによって作られ置かれている。ただ、矢板市史では、編纂した郷土史研究家が敢えて「自然とは思えないこの地蔵には、のろいがかけられたようなかっこうに三体とも、一、二ヶ所輪切りにされているという、気味悪い石地蔵である」と記しているように、その恨みは、後世に至っても深く残されていたようである。現在は、地蔵は地元の人たちによって手厚く供養され、地蔵の他に立派な供養塔も設けられている。
脚注
[編集]出典
[編集]- 『佐久山城跡 説明板』(昭和36年(1961年)12月8日指定 大田原市佐久山4458 管理者 大田原市)
- 『続下野の武将たち』(編 毎日新聞社宇都宮支局 落合書店 1980年 239-243頁)
- 『矢板市史』