佐々木長左衛門
佐々木 長左衛門(ささき ちょうざえもん、1879年(明治12年)12月8日 - 1953年(昭和28年)3月31日)は、日本の教育者。豊栄尋常小学校校長などを務めたほか、旭川でアイヌ細工、アイヌ関連の書籍などを販売する民芸土産物店を開業した。クリスチャン[1]。
生涯
[編集]宮城県に生まれる[1]。1897年(明治30年)に教職に就いた。1908年(明治41年)、 北海道上川郡上川尋常高等小学校の教師となる。
1918年(大正7年)[注釈 1]、 旭川区豊栄尋常小学校[注釈 2]の校長となる[2]。学校と同じ区画には日本聖公会の伝道所があり、伝道師の金成マツとその母、およびマツの妹の子である知里幸恵が住んでいた[1]。
1922年(大正11年)7月、『アイヌの話』(旭屋書店)を刊行、巻末の「アイヌの昔話」のうち2篇は知里幸恵の寄稿による[3]。そのころ幸恵は『アイヌ神謡集』の校正と金田一京助の手伝いをするために東京に行っていた[4]。幸恵は9月18日に心臓発作をおこし死去した。
1923年(大正12年) 3月末で豊栄小学校は廃校[注釈 3]となり校長を退職し、北海道庁立旭川商業学校に勤務する[2]。8月10日、金田一京助の訪問を受ける[5]。
1926年(大正15年) 、妻の名義で「佐々木豊栄堂」を開業。アイヌ細工や絵葉書、アイヌ人形、アイヌ関連書などを販売し[6]、旭川における民芸土産品店の草分けとなる[2]。
1937年(昭和12年) に旭川商業学校を退職する。1942年(昭和17年)から1948年(昭和23年)まで、 北海道第三師範学校(現・北海道教育大学旭川校)の図書室に勤務した。1950年(昭和25年) には北海道開発大博覧会に協力し、田中敏文知事より感謝状を授与する。 1951年(昭和26年) 、郷土資料などを旭川市に寄贈し、市長より表彰された。
1953年(昭和28年)3月31日に死去。
著編書
[編集]主に国立国会図書館のデータによる。旭川文学資料館や旭川市図書館に所蔵されている(複写含)。
- 『アイヌの話』(旭屋書店、大正11年)
- 『アイヌの話 再版』(佐々木豊栄堂、大正15年)[注釈 4]
- 『アイヌの話 3版』(佐々木豊栄堂、昭和2年)
- 『アイヌの話 増補4版』(佐々木豊栄堂、昭和6年)
- 『アイヌの熊狩と熊祭』(佐々木豊栄堂、大正15年)[注釈 5]
- 『アイヌ史資料集 第5巻 (言語・風俗編 2)』(河野本道選、北海道出版企画センター、1980年)に収録
- 『北海道旭川市アイヌ写真帖』(佐々木豊栄堂、昭和4年)[注釈 6]
- 『近文アイヌ部落概況』(佐々木豊栄堂、昭和7年)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 「佐々木長左衛門」『北海道歴史人物事典』北海道新聞社、1993年。ISBN 4893636960。
- 青柳文吉「知里幸恵と二人の日本人」『知里幸恵「アイヌ神謡集」への道』東京書籍、2003年、132-138頁。ISBN 4487799392。
関連文献
[編集]- 金倉義慧『旭川・アイヌ民族の近現代史』高文研、2006年、ISBN 4874983626
外部リンク
[編集]- アイヌ人小学校の校長先生 佐々木長左衛門(2022年2月16時点のアーカイブ)