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佐々木長左衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

佐々木 長左衛門(ささき ちょうざえもん、1879年明治12年)12月8日 - 1953年昭和28年)3月31日)は、日本教育者。豊栄尋常小学校校長などを務めたほか、旭川でアイヌ細工、アイヌ関連の書籍などを販売する民芸土産物店を開業した。クリスチャン[1]

生涯

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宮城県に生まれる[1]。1897年(明治30年)に教職に就いた。1908年(明治41年)、 北海道上川郡上川尋常高等小学校の教師となる。

1918年(大正7年)[注釈 1]旭川区豊栄尋常小学校[注釈 2]の校長となる[2]。学校と同じ区画には日本聖公会の伝道所があり、伝道師の金成マツとその母、およびマツの妹の子である知里幸恵が住んでいた[1]

1922年(大正11年)7月、『アイヌの話』(旭屋書店)を刊行、巻末の「アイヌの昔話」のうち2篇は知里幸恵の寄稿による[3]。そのころ幸恵は『アイヌ神謡集』の校正と金田一京助の手伝いをするために東京に行っていた[4]。幸恵は9月18日に心臓発作をおこし死去した。

1923年(大正12年) 3月末で豊栄小学校は廃校[注釈 3]となり校長を退職し、北海道庁立旭川商業学校に勤務する[2]。8月10日、金田一京助の訪問を受ける[5]

1926年(大正15年) 、妻の名義で「佐々木豊栄堂」を開業。アイヌ細工や絵葉書アイヌ人形、アイヌ関連書などを販売し[6]、旭川における民芸土産品店の草分けとなる[2]

1937年(昭和12年) に旭川商業学校を退職する。1942年(昭和17年)から1948年(昭和23年)まで、 北海道第三師範学校(現・北海道教育大学旭川校)の図書室に勤務した。1950年(昭和25年) には北海道開発大博覧会に協力し、田中敏文知事より感謝状を授与する。 1951年(昭和26年) 、郷土資料などを旭川市に寄贈し、市長より表彰された。

1953年(昭和28年)3月31日に死去。

著編書

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主に国立国会図書館のデータによる。旭川文学資料館や旭川市図書館に所蔵されている(複写含)。

  • 『アイヌの話』(旭屋書店、大正11年)
    • 『アイヌの話 再版』(佐々木豊栄堂、大正15年)[注釈 4]
    • 『アイヌの話 3版』(佐々木豊栄堂、昭和2年)
    • 『アイヌの話 増補4版』(佐々木豊栄堂、昭和6年)
  • 『アイヌの熊狩と熊祭』(佐々木豊栄堂、大正15年)[注釈 5]
    • 『アイヌ史資料集 第5巻 (言語・風俗編 2)』(河野本道選、北海道出版企画センター、1980年)に収録
  • 『北海道旭川市アイヌ写真帖』(佐々木豊栄堂、昭和4年)[注釈 6]
  • 『近文アイヌ部落概況』(佐々木豊栄堂、昭和7年)

脚注

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注釈

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  1. ^ 『北海道歴史人物事典』による。青柳文吉「知里幸恵と二人の日本人」では大正9年としている[1]
  2. ^ 北海道旧土人保護法によるアイヌ民族子弟のみを対象した学校。
  3. ^ 北海道旧土人保護法・特別教育規定の廃止により、アイヌ子弟も一般教育を受けることになったため廃校となった。
  4. ^ 再版より金田一京助の序文が掲載されている[7]
  5. ^ 国立国会図書館デジタルコレクションに収録されている。『アイヌの熊狩と熊祭
  6. ^ 国立国会図書館デジタルコレクションに収録されている。『北海道旭川市アイヌ写真帖

出典

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  1. ^ a b c d 青柳 2003, p. 135.
  2. ^ a b c 歴史人物事典 1993, p. 162.
  3. ^ 青柳 2003, p. 136-137.
  4. ^ 青柳 2003, p. 137.
  5. ^ 青柳 2003, p. 138.
  6. ^ 上山浩二郎「旭川市におけるアイヌ文化の動態 (PDF)
  7. ^ 青柳 2003, p. 137-138.

参考文献

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  • 「佐々木長左衛門」『北海道歴史人物事典』北海道新聞社、1993年。ISBN 4893636960 
  • 青柳文吉「知里幸恵と二人の日本人」『知里幸恵「アイヌ神謡集」への道』東京書籍、2003年、132-138頁。ISBN 4487799392 

関連文献

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  • 金倉義慧『旭川・アイヌ民族の近現代史』高文研、2006年、ISBN 4874983626

外部リンク

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