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伴盛兼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伴 盛兼
時代 戦国時代後期 - 安土桃山時代
生誕 天文16年(1547年[1]
死没 天正12年4月9日1584年5月18日[1]
別名 五郎兵衛[1]
戒名 全昌[1]
墓所 安昌寺(愛知県長久手市[2]
官位 若狭守[1]
主君 松井忠次織田信長徳川家康
氏族 伴氏[1]
父母 父:伴資盛[1]
兄弟 盛陰盛兼[1]
小倉資久の娘[1]
重盛[1]
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伴 盛兼(ばん もりかね)は、戦国時代から安土桃山時代武将

概要

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古代豪族大伴氏の末裔で、父の代までは近江国に住んで足利将軍家に仕えた。当初は兄の盛陰とともに松平元康(徳川家康)の家臣・松井忠次に招かれて仕える。忠次は盛陰・盛兼の兄弟を側近に取り立てて厚遇したという。永禄5年(1562年上ノ郷城攻めでは兄や同族の伴一族とともに活躍した[1][3]。盛陰はその後も家康に従ったが盛兼は織田信長に仕え、伊勢亀山に住んだ[注釈 1]

天正10年(1582年本能寺の変が起きた時、畿内にいた徳川家康が帰国のために伊賀越えを決行した。盛兼は当時病床に伏していたが家康に急使を送って協力を申し入れ、甲賀の伴一族とともに家康の伊賀越えを案内した。嫡子の重盛はこの年に、盛兼は翌年に三河国に赴いて家康に臣従し、知行600貫を与えられた[1]。天正12年(1584年小牧・長久手の戦いに従軍し、羽黒の戦いでは甲賀衆が多数戦死したためその見分を申しつけられている[5]。しかしその翌月、長久手の戦闘で盛兼もまた家康の眼前で戦死を遂げた[1][6]

脚注

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注釈

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  1. ^ 伊勢亀山城元亀年間までは関氏が、その後は信長の三男・織田信孝が治めた[4]

出典

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参考文献

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  • 平松令三 編『三重県の地名』平凡社日本歴史地名大系〉、1983年。ISBN 978-4-582-91039-1 
  • 小菅廉; 伊東孝之助; 笠原久保 編『尾参郷土史』 下巻、歴史図書社、1980年。 
  • 寛政重修諸家譜』 17巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0221-5 
  • 『石川正西聞見集』埼玉県立図書館〈埼玉県史料集〉、1968年。 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料』 第11編之16、東京大学出版会、2000年。ISBN 978-4-13-090516-9