コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

華頂博信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伏見宮博信王から転送)
博信王
華頂博信
伏見宮家・華頂侯爵家
海軍大尉時代
続柄

身位 侯爵華族) → 制度廃止
敬称 殿下閣下 → 制度廃止
出生 1905年5月22日
日本の旗 日本東京府東京市
死去 (1970-10-23) 1970年10月23日(65歳没)
配偶者 華子女王(1951年離婚)
  早川ルース寿美子(1953-1970年)
子女 華頂博道
伏見博孝
父親 伏見宮博恭王
母親 博恭王妃経子
テンプレートを表示

華頂 博信(かちょう ひろのぶ、1905年明治38年)5月22日 - 1970年昭和45年)10月23日)は、日本皇族政治家海軍軍人伏見宮家の出身で、後に臣籍降下華族侯爵)となり、貴族院議員を務めた。階級は海軍大佐勲一等侯爵。皇族時代は(伏見宮)博信王(ひろのぶおう)という。

経歴

[編集]
少尉候補生時代

1925年(大正14年)5月22日、貴族院皇族議員に就任[1]。同年7月14日海軍兵学校53期)を卒業した博信は、同日海軍少尉候補生・「磐手」乗組を命ぜられ、翌年の1926年(大正15年)12月1日海軍少尉山城乗組に任命される。昭和12年7月、海軍大学校(35期)卒業。

また、同1926年(大正15年)10月19日勲一等旭日桐花大綬章受章、12月7日臣籍降下し、華頂の家号を賜り侯爵として華族に列せられ貴族院皇族議員を退任[2]。この際、実兄である華頂宮博忠王の死により断絶していた華頂宮家の祭祀を継承した。同月13日、閑院宮載仁親王の娘・華子と結婚。

1931年(昭和6年)に大尉に昇進[3]1932年(昭和7年)12月に「愛宕分隊長に就任。以後「」水雷長、「」水雷長、軍令部員等を歴任した。1935年(昭和10年)5月21日には侯爵として貴族院議員に就任する[4]

1939年(昭和14年)10月に海軍大学校教官となってからは、各種学校の教官を経験する。1945年(昭和20年)7月15日海軍水雷学校教官に補され、翌月8月15日終戦を迎える。階級は海軍中佐であった。同年9月5日には海軍大佐に進級し11月、予備役編入となる。

華頂侯爵邸(「旧華頂宮邸」)

1929年(昭和4年)に博信が造らせ、1931年(昭和6年)に完成した邸宅(旧華頂宮邸)は所在地である神奈川県鎌倉市によって保存されている。

兄弟たちが病死や戦死で早世する中、父宮博恭王と共に太平洋戦争終結まで存命であった。1946年(昭和21年)4月12日、貴族院議員を辞任[5]。同年公職追放となる[6]1951年(昭和26年)に妻華子と離婚。旧皇族の離婚第一号となる。その原因は、華子と戸田豊太郎徳川慶喜の孫徳川喜和子の元夫)との不義密通が発覚したことであった。華子は結局戸田のもとに走り、博信は再婚して渡米、心理学の研究生活に入った[7]

血縁

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、33頁。
  2. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、36頁。
  3. ^ 千田稔『華族総覧』講談社、2009年7月、115頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  4. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、44頁。
  5. ^ 『官報』第5795号、昭和21年5月13日。
  6. ^ 『朝日新聞』1946年9月26日一面。
  7. ^ 本田靖春『現代家系論』p.276 - 277(文藝春秋社1973年
  8. ^ a b c d e 平成新修旧華族家系大成上, p. 423.
  9. ^ 「門閥: 旧華族階層の復権」佐藤朝泰 立風書房, 1987、97p
  10. ^ a b 老舗めぐり56 HANA美容室Monthly わっこ166号、狛江市、2017.6
  11. ^ 会社情報株式会社ドライバーズバンク
  12. ^ 中央運転サービス株式会社biz-maps
  13. ^ 平成新修旧華族家系大成下, p. 456.
  14. ^ “松岡震三・元住友金属工業専務が死去”. 日本経済新聞. (2010年12月16日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG16044_W0A211C1000000/ 
  15. ^ 佐藤朝泰 (1987). 門閥: 旧華族階層の復権. 立風書房. p. 98 

参考文献

[編集]
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。

外部リンク

[編集]
日本の爵位
先代
叙爵
侯爵
華頂家初代
1926年 - 1947年
次代
華族制度廃止