伊達邦孚
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文政12年1月12日(1829年2月15日) |
死没 | 文久2年9月16日(1862年11月7日) |
改名 | 卯之助(幼名)、邦孚 |
別名 | 通称:式部、字:子華、号:薫園 |
戒名 | 廣雲院元山維良 |
墓所 | 宮城県黒川郡大和町の覚照寺 |
主君 | 伊達慶邦 |
藩 | 陸奥仙台藩 |
氏族 | 宮床伊達家 |
父母 | 伊達宗賢 |
兄弟 | 邦孚、和田為泰ら |
妻 |
遠藤勘解由娘 石川義光四女・従子 |
子 | 宗広 |
伊達 邦孚(だて くにたか)は、江戸時代後期の陸奥国仙台藩一門・宮床伊達家10代当主。通称は式部。字は子華。号は薫園。
略歴
[編集]文政12年(1829年)1月12日、仙台藩一門宮床邑主・伊達宗賢の子として宮床にて誕生。幼名を卯之助。
安政4年(1858年)9月9日、父・宗賢の隠居により家督と知行8000石を相続し、宮床邑主となる。文久2年(1862年)9月16日死去。享年34。法号は廣雲院元山維良。葬地は宮床覚照寺。家督は父・宗賢が再家督の後、宗広が相続した。
人物
[編集]父・宗賢と同じく勤皇家であり、詩作に優れた教養人でもあった。著作に「村居百絶」「詠物百律」がある。
系譜
[編集]参考文献
[編集]- 『宮城県黒川郡誌』
- 『仙台郷土誌』
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