伊達宗広
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時代 | 江戸時代後期 - 昭和時代 |
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生誕 | 安政5年6月23日(1858年8月2日) |
死没 | 昭和3年(1928年)12月8日 |
別名 | 勝三郎、広高 |
戒名 | 瑞雲院殿嵩山維広大居士 |
墓所 | 宮城県黒川郡大和町の覚照寺 |
主君 | 伊達慶邦 |
藩 | 陸奥仙台藩 |
氏族 | 宮床伊達家 |
父母 | 伊達邦孚 |
伊達 宗広(だて むねひろ)は、明治時代から昭和時代初期の政治家。仙台藩一門第七席・宮床伊達家11代当主。宮城県黒川郡宮床村長。
生涯
[編集]安政5年(1858年)6月23日、宮床伊達家10代当主・伊達邦孚の子として誕生。文久2年(1862年)9月に父・邦孚が死去した際、宗広は幼少を理由に即時の家督相続を認められず、隠居していた祖父の宗賢が家督を代行した。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争に敗れた仙台藩は減封され、宮床伊達家は所領を失い、家中も士族籍を得られなかったため、翌年に他の一門と共に北海道開拓を志願し、分領が割り当てられることになったが、現地調査の結果、同地の開拓は難しいと判断し、明治3年(1870年)11月27日、移住を諦めて家中全員を帰農させることにした。
明治32年(1899年)、宗広は宮床村長に就任した。昭和3年(1928年)12月8日死去。享年71。
参考文献
[編集]- 『宮床村史』(宮城県黒川郡宮床村、1955年)
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