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伊達泰司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊達 泰司
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 奈良県桜井市大福
生年月日 (1951-03-03) 1951年3月3日(73歳)
身長
体重
178 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手外野手
プロ入り 1972年 ドラフト1位
初出場 1973年6月5日
最終出場 1976年7月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

伊達 泰司(だて やすじ[1]1951年3月3日 - )は、奈良県出身の元プロ野球選手一塁手外野手)。右投右打。息子は元プロ野球選手の伊達昌司

名前の読みは、1973年から1976年5月13日までは「いだて やすじ」であった[1]

来歴・人物

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御所工業高校では、1968年春の第40回選抜大会中堅手として出場。1回戦で杉山茂町田公雄らのいた銚子商に敗れた[2]。高校時代の同期には、同じ法大を経て近鉄入りする松村彰士がいる。

法政大学に進学。東京六大学野球リーグでは、1年上のエース横山晴久らを擁し1969年秋季リーグから4季連続優勝を経験。全日本大学野球選手権大会明治神宮野球大会とも準優勝1回。当時の法大外野陣には、同期に長崎慶一、1年上に依田優一大昭和製紙)、鈴木士郎(住友金属)が揃っており、なかなかレギュラーには届かなかった。しかし1972年には長崎と三、四番を組み、春季リーグで打率.418(3位)、秋季リーグで打率.356(6位)を記録、春秋季ともベストナイン(外野手)に選出されている[3]。同年の第1回日米大学野球選手権大会日本代表に選出され、日本の初優勝にも貢献。松村、長崎以外の大学同期に池田信夫若生正廣両投手がいた。いずれは家業を継ぐつもりで、本田技研鈴鹿にも内定していた。

1972年のドラフト1位指名でロッテオリオンズに入団[3]。ベース一周14秒5の俊足を持つ大学球界屈指の強打者であり、大きく期待されたが1年目は春季キャンプで左膝を捻挫し一軍では12試合の出場に留まった[3]1974年ジュニアオールスターにも出場する。同年の最終戦では阪急を相手に中堅手として初先発出場、無安打ながら1打点を記録した。しかしその後は出場機会に恵まれず、1975年オフに松岡清治との交換トレードヤクルトスワローズへ移籍[3]。ここでも活躍の場は少なく、1977年限りで現役を引退[3]

引退後は会社員を経て、1990年にスカウトとして古巣・ロッテオリオンズに復帰[3]。以降、二軍マネージャーと寮長を歴任した[3]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1973 ロッテ 12 2 2 2 0 0 0 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
1974 6 7 7 1 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .143 .143 .143 .286
1976 ヤクルト 5 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
通算:3年 23 10 10 3 1 0 0 0 1 1 1 1 0 0 0 0 0 4 0 .100 .100 .100 .200

記録

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背番号

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  • 33(1973年 - 1975年)
  • 52(1976年 - 1977年)

脚注

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  1. ^ a b B・B・MOOK610 『東京ヤクルトスワローズ40年史』 ベースボール・マガジン社、2009年、93頁。
  2. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  3. ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、337ページ

関連項目

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外部リンク

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