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伊東重信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

伊東 重信(いとう しげのぶ、生年不詳 - 天正16年7月4日1588年8月25日))は、戦国時代から安土桃山時代の武将。陸奥国伊達氏の家臣。諱は重信。通称は金四郎または新左衛門。伊東 肥前(いとう ひぜん)とも。安積祐重の子。伊東重綱重村の父。伊東重孝の祖父。

生涯

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伊東氏工藤祐経の次男・祐長を祖とする。祐長は勲功により鎌倉幕府から陸奥国安積郡(現在の福島県郡山市)を賜わる。代々安積郡を領し、永享11年(1439年)に伊達持宗の麾下に属した。その後、天文12年(1543年)4月に田村隆顕によって居城[注釈 1]を攻略されるまで安積郡に本拠を置いた。

天文22年(1553年)正月、伊達晴宗が安積金四郎(重信)に与えた『所領安堵状』の中に「伊達郡前田ノ内、屋敷手作」とあることから、重信は前田舘[注釈 2]を本拠としていたとみられる[1]

天正13年11月17日1586年1月6日)の人取橋の戦いでは、高倉近江富塚宗綱桑折政長とともに高倉城の守備にあたり、玉砕戦法による本陣救援を主張して寡兵ながらも[2]敵二騎を討ち取る活躍を示した。この戦功により次男に采地を賜った。

同15年(1587年)4月末、伊達輝宗の次男ではない国分政重(盛重)の家督相続に不満を抱いていた家臣の堀江長門守が内乱を起こした際[注釈 3][3]4月25日に代官として名取郡北目城に派遣されて騒擾の収拾にあたった。5月8日留守政景の助力もあって静謐になったことを報告した。しかし、その後も不満が収らなかったため、5月22日6月19日8月4日にも国分に遣わされた[4]

天正16年(1588年)、大崎合戦の陣触れのため内馬場尚信とともに、伊達の西根・東根・刈田・柴田・伊具方面に遣わされた。

大崎合戦が終結すると、郡山合戦に従軍して同年6月14日安積山での評定に参加した。その後、伊達政宗から原田休雪斎とともに全軍の指揮を任せられた。7月4日、窪田で戦う味方を退却させようとしたが、混戦となったために深入りして二階堂家家臣の矢田野義正によって討ち取られた[5]

重信の死後、仙台藩第4代藩主伊達綱村によって重信を称える碑が建てられた[注釈 4]。この碑は近くの日吉神社に『伊東肥前の碑』として現在も残り、郡山市指定文化財史跡)に指定されている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『郡山市史第8巻資料編』第3章中世史料230『仙道田村荘史』所収の『歓集直山章』に「天文十二年四月 田村隆顕来安積、会津名代衆安積調切之武士攻之乱入、二十七郷奪六個所、此時会津方敗、至十月引退中山、侍四十一人雑兵八百騎被討、所掠下飯津、前田沢、小原田、郡山、荒井、名倉云々」と記されていることから、『郡山市史新版』ではこれら6ヶ所のいずれかが安積氏の本拠だった可能性が示唆されている。
  2. ^ 現在の福島県伊達郡国見町小坂
  3. ^ 輝宗次男の国分氏への入嗣が決まっており、政重は輝宗の次男が生まれるまでの代官として国分氏に送り込まれていたに過ぎないため、政重の家督相続には家中の反発があった。
  4. ^ 参勤交代の際に伊達家が必ず供養したことから「仙台仏」とも呼ばれている。

出典

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  1. ^ 菊池利雄 (1988-10-15). “ふるさとの文化財35安積屋敷跡(前田舘)”. 広報くにみ(No184). 
  2. ^ 『本宮地方史』本宮町公民館、1961年11月10日、48-49頁。 
  3. ^ 遠藤ゆり子『伊達氏と戦国争乱』吉川弘文館、2016年1月10日、115-116頁。 
  4. ^ 『貞山公治家記録』巻2
  5. ^ 『政宗記』巻5

参考文献

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  • 曾我伝吉編『本宮地方史』(本宮町公民館、1961年)
  • 遠藤ゆり子編『伊達氏と戦国争乱』(吉川弘文館、2016年)

外部リンク

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