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伊久比売神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊久比売神社

参道
所在地 和歌山県和歌山市市小路字木ノ下330
位置 北緯34度15分23.0秒 東経135度10分17.6秒 / 北緯34.256389度 東経135.171556度 / 34.256389; 135.171556 (伊久比売神社)座標: 北緯34度15分23.0秒 東経135度10分17.6秒 / 北緯34.256389度 東経135.171556度 / 34.256389; 135.171556 (伊久比売神社)
主祭神 伊久比売命
社格 式内社論社・旧村社
創建 不明
本殿の様式 一間社流造銅板葺
別名 市姫大明神
例祭 10月13日
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伊久比売神社(いくひめじんじゃ)は、和歌山県和歌山市市小路(いちしょうじ)に鎮座する神社。『延喜式神名帳紀伊国名草郡の「伊久比売神社」に比定される式内社論社で、現在は和歌山市楠見、野崎2地区と貴志地区の次郎丸(じろまる)、延時の産土神として信仰されている[1]。旧村社

祭神

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  • 伊久比売命

紀伊続風土記』は鎮座地が「市小路」であること、氏子からは「市姫大明神」と呼ばれていることから、近世以前にこの地に市場が開かれ、その鎮守として「市姫」が祀られたのではないかと推測している。現在の祭神は伊久比売命とされているが異説もある[2]

由緒

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創祀の由来は不明であるが、天平宝字8年(764年)に異賊が来襲した際に藤原貞国という者を将軍に任じてこれを追討、凱旋した貞国が神告を受けて奉幣をしたとの伝えがあり[3]、それに従えば奈良時代以前には創祀されていたことになる。

社伝によれば、『延喜式神名帳』の「伊久比売神社」、『紀伊国神名帳』名草郡地祇30社中の「従四位上 伊久比売神」であるとされるが、『紀伊続風土記』は、当神社の鎮座地は紀ノ川下流域にあたるためにしばしば洪水に襲われ、また後世の兵乱に遭ったりしたためにその来由は不明であるとし、古く「市姫大明神」と称されていたことと鎮座地の字名である「市小路」から、江戸時代以前に鎮座地一帯に市場が開かれ、当神社はその守護神として勧請されたものであり、それも海岸線の退行により当地に村落が形成されるようになってから後のことであろうと考証している。徳川頼宣の紀伊入封後、その旧跡を尋ねた結果当神社が考定されて社名を改め、その後享保11年(1726年)に境内四至を定めるなどして古社としての姿を現すに至り、楠見荘[4]の4村(次郎丸村、市小路村、中ノ村、船所村[5])の産土神とされた[6]

明治6年(1873年)4月に村社に列し、同41年から45年2月にかけて近隣の神社を合祀したり境内に移祠している。

式内「伊久比売神社」

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式内「伊久比売神社」の存在は近世以前には既に不明となっており、上述したように頼宣の紀伊入封後に当神社が比定されるようになったのではあるが、『紀伊続風土記』はこの地が『延喜式』以前においては海中に位置しており、従って式内社の鎮座すべき地ではなく、また「社地の形状も大社たる姿なし」と当神社に比定する事には懐疑的で、当神社が式内社であるにせよ、かつては当地の東北方に鎮座していたものを遷したものではないかとする。これに対し、自然地理学的に紀ノ川の流路変更は認められるものの、平安時代に当神社の位置が海中や河道内ではなかったことが判明しているので、楠見地区一円の産土神的な神社が古くから現在地にあった可能性があり[7][8]、古代には当地一帯が入海の沿岸部に相当するとともに[8]、付近に紀伊湊が置かれ、以後中世にかけてそこに隣接する市場が置かれたことから市の守護神としての「市姫」を祀る神社が創祀された可能性がある[7][8]。もっともその場合でも、その神社が式内社であったとは限らず、式内社に比定されたのも江戸時代以降であるため、検討の余地は大いに残されている[7][8]

祭祀

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近世には次郎丸、市小路、中ノ、船所の4箇村による宮座が構成されて代々神社の祭祀等に参与する権利を有したとされるが[9]、現在ではその詳細は不明である[10]。また藩により式内社と認定された直後、享保13年6月には藩から宮座中の市小路村田中藤兵衛が「筋目之者」として神主に任命されている[11]

現在の例祭日は10月13日。

社殿

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本殿は一間社流造、屋根銅板葺千木・鰹木を置く。拝殿は瓦葺割拝殿

末社

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里神神社[12]、八幡社・八王子社(1宇相殿[13]、住吉神社[14]、金比羅宮[15]、楠本白龍大神、妙見社、八幡社、八幡神社、九頭神社[16]、春日神社があり、また「氏社両大明神/天照皇大神宮、金毘羅大権現」と彫られた小石塔がある。殆どが上述の明治末年に遷祠されたものである。

脚注

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  1. ^ 『和歌山市要』(増補5版)、和歌山市、昭和40年。
  2. ^ 吉田東伍の『大日本地名辞書』は「伊比売」は「伊比売」の誤りで、伊也土神社(六十谷鎮座の射矢止神社)の「伊也土」に対するものではないか、更に伊也土神は大屋毘古神(五十猛神の別称)のこと、それに対する「伊也比売」は大屋姫(大屋津姫命)のことではないかとの説を掲げる。また、出口延経の『神名帳考証』(享保18年(1733年)成稿)や『南紀神社録』(延享3年(1746年)刊)は稚日女命(尊)としている。
  3. ^ 紀伊名所図会』。
  4. ^ 荘園ではなく、古代・中世の楠見郷に由来する近世の集落単位。
  5. ^ それぞれ現在の大字次郎丸、市小路、楠見中、船所(ふなどこ)に相当する。
  6. ^ 『紀伊続風土記』。因みに享保13年6月の改めに係る『楠見荘生姫神社再顕座帳』(『和歌山市史』第6巻所収)によれば、享保11年6月28日付で藩から式内社認定の達しがあり、翌12年2月3日には式内社であり境内「禁殺生」である旨の制札が建てられている。
  7. ^ a b c 『角川日本地名大辞典』。
  8. ^ a b c d 『和歌山県の地名』。
  9. ^ 『式内社調査報告』。前掲『再顕座帳』によれば、中ノ村から3名、市小路村から7名、船所村から4名、次郎丸村から3名、の計17名が知られる。
  10. ^ 『式内社調査報告』。
  11. ^ 前掲『再顕座帳』。
  12. ^ 船所に鎮座していた無格社。
  13. ^ 市小路字権現に鎮座していた無格社、明治43年遷祠。
  14. ^ 楠見中字弾塚に鎮座していた無格社、明治41年遷祠。
  15. ^ 平井に鎮座していた無格社。
  16. ^ 粟に鎮座していた無格社。

参考文献

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  • 紀州藩編『紀伊続風土記』(和歌山県神職取締所翻刻)、帝国地方行政学会出版部、明治43年
  • 杉原泰茂『南紀神社録』(『神道大系』神社編第41巻(紀伊・淡路国)、神道大系編纂会、昭和62年 所収)
  • 高市志友『紀伊名所図会』1(歴史図書社による改題復刻版)、歴史図書社、昭和45年
  • 吉田東伍『大日本地名辞書』第2巻(上方)、冨山房、昭和55年(明治33年刊の増補版)
  • 『式内社調査報告』第23巻 南海道、皇學館大學出版部、昭和62年
  • 『角川日本地名大辞典』第30巻(和歌山県)、角川書店、昭和60年 ISBN 4-04-001300-X
  • 『和歌山県の地名』(日本歴史地名大系31)、平凡社、昭和58年 ISBN 9784582490312
  • 『和歌山県誌』第3巻、名著出版、昭和45年(和歌山県刊、大正3年の復刻)
  • 『和歌山県神社誌』和歌山県神社庁、平成7年
  • 『和歌山市史』第6巻(近世史料Ⅱ)、和歌山市、昭和51年

関連項目

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外部リンク

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