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今純三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

今 純三(こん じゅんぞう、1893年明治26年)3月1日 - 1944年昭和19年)9月28日)は、日本の銅版画家。銅版画の技法研究にほぼ独力で取り組み、昭和初期における日本の銅版画の普及に関与した。

略歴

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  • 1893年(明治26年)3月 青森県(現・弘前市)代官町の生まれ。医師である父成男と母きよの3男で5人兄弟の真ん中。代々弘前藩の典医の家系。
  • 1899年(明治32年)4月 弘前市立城西小学校(当時4年制)に入学。
  • 1903年(明治36年)4月 弘前市立高等小学校入学。
  • 1906年(明治39年)3月 弘前市立高等小学校を卒業。父が東京で医院を開業するため、一家で上京。
  • 1906年(明治39年) 独乙学協会学校中学部に入学。
  • 1909年(明治42年) 独乙学協会学校中学部を退学し、「太平洋画家会研究所」に入る。
  • 1912年(明治45年)4月 「本郷洋画研究所」に入る。研究生第1号。
  • 1912年(大正元年)8月 早稲田工手学校(現在の早稲田大学芸術学校)建築科(夜間)に入学。
  • 1913年(大正2年) 第7回文展に油彩画「公園の初秋」が入選。大正博覧会美術展に油彩「花と果実」が入選。
  • 1914年(大正3年)7月 早稲田工手学校建築科(夜間)を卒業。
  • 1919年(大正8年) 第1回帝展に油絵「バラライカ」[1] が入選。
  • 1920年(大正9年) 松竹蒲田撮影所美術部に入り、背景設計などを担当。
  • 1921年(大正10年) 資生堂意匠部主任(1923年まで)
  • 1923年(大正12年) 関東大震災で東京の住居が倒壊したため青森市に移転。この頃から、石版画エッチングの研究に本格的に着手。
  • 1926年(大正15年) 印刷会社啓明社に勤務。石版、オフセットを研究。
  • 1927年(昭和2年)4月 青森県師範学校[2] 図画科教授嘱託として、美術を教える。
  • 1933年(昭和8年)3月 青森県師範学校を退職し、画業に専心。4月に東奥日報社編集局嘱託となる。『青森県画譜』を10月から毎月1回刊行。
  • 1934年(昭和9年)9月 『青森県画譜』完成。
  • 1935年(昭和10年)『エッチング奥入瀬渓流連作』[3] 及び 『エッチング 創作版画小品集』の制作に着手。
  • 1937年(昭和12年) 西田武雄西田半峰)が創刊した雑誌『エッチング』の第55号から、3年間「私のエッチング技法」と題して23回にわたり連載。
  • 1938年(昭和13年) 『松尾鉱山精錬所』[4] 制作。
  • 1939年(昭和14年) 一家で上京。池袋でエッチング版画の制作に専念。
  • 1940年(昭和15年) 広山謄写版インキ製造所に関野凖一郎曽我尾武治らとともに勤務。
  • 1943年(昭和18年) 著書『版画の新技法』を出版
  • 1944年(昭和19年)心身の酷使で発病、7月入院。
  • 1944年(昭和19年)9月28日 入院先の中野区江古田浄風園病院で死去(51歳)。
  • 1944年(昭和19年)10月18日 菩提寺である弘前市西茂森の藤先寺の今氏の墓所に埋葬。法名「純正院画雲流泉居士」。[3]

その他

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  • 今が青森県師範学校で教えていたこともあり、青森では、版画教育が盛んである。また、1931年(昭和6年)から1943年(昭和18年)までの13年間東奥美術展覧会の審査員を務めた。
  • 父方の叔父に北海道帝国大学総長を務めた医学者の今裕、兄に早稲田大学教授(考現学)の今和次郎がいる。

註釈

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  1. ^ 弘前市立博物館蔵
  2. ^ 『中等教育諸学校職員録 昭和4年5月現在 第26版』中等教科書協会、〔1929〕、p.731
  3. ^ a b 『今純三作品集』162頁。
  4. ^ 青森県立郷土館蔵。『今純三作品集』では『松尾鉱山精錬場』と記載。

参考文献

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  • 青森県環境生活部県民文化課県史編さんグループ編 『近現代の美術家』 青森県(青森県史叢書)、2012年3月15日、41-43頁。
  • 青森県史編さん文化財部会編 『青森県史 文化財編 美術工芸』 青森県、2010年9月30日、272-281頁、294-295頁。
  • 『青森県人名事典』 東奥日報社、2002年8月8日、263-264頁。
  • 濱田正二監修 「今 純三作品集」刊行委員会編 『今純三作品集』 東奥日報社、1982年12月15日、160-162頁。
  • 小倉ミキ 『父 今純三のこと』 北の街社、1979年2月5日、142-147頁。