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今川義泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
今川義泰
時代 江戸時代
生誕 享保13年(1728年
死没 天明4年1月10日1784年1月31日[注釈 1]
改名 西尾義泰→今川義泰
別名 彦三郎、主馬(通称
戒名 仰高院殿徳峰賢威大居士[2]
墓所 長延寺
官位 従五位下、侍従、丹後守
幕府 江戸幕府奥高家
氏族 清和源氏足利氏今川氏
父母 父:今川範主、母:某氏
養父:今川範彦
兄弟 範彦松平勝文、女(赤井林幸室)、義泰、女(稲垣正庸室)
喜連川茂氏の娘
義彰
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今川 義泰(いまがわ よしやす)は、江戸時代中期の高家旗本今川家では氏睦以来約70年ぶりに高家職(奥高家)に就いた。今川家19代当主[注釈 2]

生涯

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今川範主の三男として生まれ、はじめ西尾を称する。兄今川範彦の養子となり、寛延2年(1749年)10月8日、19歳で家督を相続する。同年11月28日、将軍徳川家重御目見する。

宝暦12年(1762年)8月15日、32歳で高家職に就き、従五位下・侍従に叙任、丹後守を称する。明和2年(1765年)には久能山東照宮の遷宮に際し同地に赴いている。

安永4年(1775年)7月9日、病気のため高家職を辞す。天明4年(1784年)閏1月18日死去、54歳。菩提寺である長延寺に葬られた。

系譜

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寛政重修諸家譜』によれば、1男がある。

父母
妻妾
  • 正室:喜連川茂氏喜連川藩主)の三女。
    宝暦2年(1752年)7月に婚姻したが、のちに離婚、井上正延(4000石)の継室になっている。
  • 継室:某氏
    今川義彰の生母。某氏とのみあるため側室と思われるが、観泉寺過去帳に「先丹後守(義泰)奥方」とあるため、継室となったかもしれない。享和4年3月17日(1804年4月26日)没[注釈 3]。法名は盛寿院殿禎室智祥大禅定尼[2]
子女

参考文献

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  • 『寛政重修諸家譜』巻第九十四
  • 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)

脚注

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注釈

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  1. ^ 長延寺および観泉寺過去帳による[1]。『寛政重修諸家譜』では天明4年閏1月18日1784年3月9日)とする。これは公儀への届け出日と思われる。
  2. ^ 家祖・国氏から数えた代数。
  3. ^ 長延寺過去帳による。観泉寺過去帳によれば3月18日没。

出典

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  1. ^ 『今川氏と観泉寺』p.50
  2. ^ a b 『今川氏と観泉寺』p.75、「近世今川家歴代法号一覧表」。