今川義泰
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 享保13年(1728年) |
死没 | 天明4年1月10日(1784年1月31日)[注釈 1] |
改名 | 西尾義泰→今川義泰 |
別名 | 彦三郎、主馬(通称) |
戒名 | 仰高院殿徳峰賢威大居士[2] |
墓所 | 長延寺 |
官位 | 従五位下、侍従、丹後守 |
幕府 | 江戸幕府奥高家 |
氏族 | 清和源氏足利氏流今川氏 |
父母 |
父:今川範主、母:某氏 養父:今川範彦 |
兄弟 | 範彦、松平勝文、女(赤井林幸室)、義泰、女(稲垣正庸室) |
妻 | 喜連川茂氏の娘 |
子 | 義彰 |
今川 義泰(いまがわ よしやす)は、江戸時代中期の高家旗本。今川家では氏睦以来約70年ぶりに高家職(奥高家)に就いた。今川家19代当主[注釈 2]。
生涯
[編集]今川範主の三男として生まれ、はじめ西尾を称する。兄今川範彦の養子となり、寛延2年(1749年)10月8日、19歳で家督を相続する。同年11月28日、将軍徳川家重に御目見する。
宝暦12年(1762年)8月15日、32歳で高家職に就き、従五位下・侍従に叙任、丹後守を称する。明和2年(1765年)には久能山東照宮の遷宮に際し同地に赴いている。
安永4年(1775年)7月9日、病気のため高家職を辞す。天明4年(1784年)閏1月18日死去、54歳。菩提寺である長延寺に葬られた。
系譜
[編集]『寛政重修諸家譜』によれば、1男がある。
- 父母
- 妻妾
- 子女
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第九十四
- 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 長延寺および観泉寺の過去帳による[1]。『寛政重修諸家譜』では天明4年閏1月18日(1784年3月9日)とする。これは公儀への届け出日と思われる。
- ^ 家祖・国氏から数えた代数。
- ^ 長延寺過去帳による。観泉寺過去帳によれば3月18日没。