今井田勲
今井田 勲(いまいだ いさお 1915年8月1日 – 1989年6月24日)は鹿児島県出身の編集者。
経歴
[編集]鹿児島県種子島に生まれ育つ。旧制中学校時代、今井田榕舟(ようしゅう)の名で自由律短歌を制作し、雑誌にたびたび入選。
上京後、1938年、400倍以上の競争率を突破して主婦之友社(現在の主婦の友社)に入社。初代社長石川武美と『主婦の友』編集長本郷保雄に鍛えられる。『主婦之友花嫁講座』全12巻や『続主婦之友花嫁講座』全8巻、『世界名作家庭文庫』全50巻で成功を収める。
数年後に、主婦の友社・講談社・新潮社などの出資で設立された大東亜出版に出向、内閣情報局が大東亜共栄圏のための青年向けに発行した雑誌『ヒカリ』の編集長となる。『ヒカリ』の実物は残っていないが、当時同じような国策雑誌として発行された『FRONT』に似た誌面・内容だったと思われる。
第二次世界大戦で1943年、二等兵として召集された折、太平洋上で輸送船が敵魚雷に撃沈され、九死に一生を得る。ラバウルで敗戦を迎えた後、オーストラリア軍の捕虜となり、収容所で暮らす。このとき、暴動寸前にまで荒んでいた収容兵たちの心を和ませるために、謄写版刷りの『かがみ新聞』と『かがみ』誌を発行。このことは、戦後、美談として讀賣新聞に大きく取り上げられた。
復員後は主婦の友社を去り、旧知の草月流・勅使河原蒼風に依頼して『草月流いけばな』全3巻を予約出版形式で刊行、当時の貨幣価値で100万円(2006年現在の数億円)にのぼる売上を達成。これを基に婦人書房を設立し、1951年(昭和26年)に倒産するまで女性向けの単行本を専門に刊行。
1952年、文化服装学院創立者遠藤政次郎の頼みで『装苑』編集長に就任。文化出版局の最高責任者を仰せ付けられ、『ハイファッション』『ミセス』『銀花』を創刊する。女性誌の四種の神器と呼ばれる皇室記事・ゴシップ記事・セックス記事・実用記事を一切扱わなかったにも拘らず成功を収めた。
1952年、熊井戸立雄(婦人画報社)、瀬戸忠信(日本繊維出版社)、長谷川映太郎(鎌倉書房)と共に日本ファッションエディターズクラブ (NFEC) を立ち上げ、1956年にはFEC賞を制定[1]。日本のファッションデザイナー・ジャーナリストなどをまとめ、日本のファッションを世界にアピールするためにも活動した。
1989年6月24日死去。7月10日文化学園葬が文化学園大ホールで行われた。
豆本蒐集家として
[編集]豆本の蒐集や研究でも知られ、「私の稀覯本 豆本とその周辺」などの著書もある。
著書
[編集]- 編集長から読者へ―婦人雑誌の世界(いるか叢書5)(1967年、現代ジャーナリズム出版会 ) *三枝佐枝子との共著。
- 私の稀覯本―豆本とその周辺(1976年、丸の内出版)
- 鶏留啼記(1978年、湯川書房)
- 編集中記(1981年、書肆季節社)
- 当世豆本版元銘々伝 (こつう豆本〈65,66〉)(1984年、日本古書通信社)
- 現代日本の豆本と蒐集家 豆本(1987年、未来工房)
参考文献
[編集]- 「「知」のコレクターたち―梅棹忠夫対談集」梅棹忠夫、講談社、1989年9月、ISBN 9784062044585
- 「時代を創った編集者101」寺田博、新書館、2003年8月、ISBN 9784403250729
- 「戦後名編集者列伝―売れる本づくりを実践した鬼才たち」桜井秀勲、編書房、2003年9月、ISBN 9784434030116
- 「昭和の名編集長物語―戦後出版史を彩った人たち」塩澤実信、展望社、2014年9月、ISBN 9784885462856
- 「『ミセス』の時代 おしゃれと<教養>と今井田勲」江刺昭子、現代書館 2014年11月、ISBN 9784768457504
脚注
[編集]- ^ 椎根和『49冊のアンアン』フリースタイル、2023年4月25日、64頁。ISBN 9784867310052。