今井兼文 (初代)
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初代 今井 兼文(いまい かねふみ[1]、1828年8月17日(文政11年7月7日) - 1901年(明治34年)5月10日[1])は、日本の医師[2]、和漢洋書籍商兼活版印刷業[3]。今井書店創業者。
経歴
[編集]備前岡山藩医・難波玄民の子として生れる[4]。家は代々藩の医士である[5]。美作神代村の母方のもとで生活する[4]。幼少にして父を亡くし、母方の今井姓を名乗る[6]。母とは12歳のときに死別する[6]。
岡山の石井藩医邸に住み込んで医学の勉強を始める[6]。豊後の帆足万里に師事し[4][6]、儒学を研鑽する[5]。長崎で西洋医学を修行し、一旦岡山に帰る[4]。1857年(安政4年)、米子に移って荒尾氏に仕え、米子組儒医となった[1][6]。種痘を行う[4]。
明治維新があり、米子組士族となり俸禄を賜わる[5]。勝田神社の祠官となる[5]。1872年(明治5年)、米子尾高町で今井郁文堂を開業する[1]。1884年(明治17年)、書店の隣に印刷所を開設する[1][6]。1901年(明治34年)5月10日、病気のため死去する[5]。享年74[5]。親類と旧友は相議して安国寺域内に葬る[5]。
人物
[編集]諱は甃[5]。字は子潔[5]。雪窓と号し、書をよくする[6]。幼字は芳平[5]。更めて芳斎と称し、後に兼文と改める[5]。
家族
[編集]- 今井家
- 妻(秋津氏)[5]
- 長男・幾太郎 - 神戸にいて、別に一家を成す[5]。
- 二男・久次郎 - 境町在住[5]。
- 長女・静(近藤質の妻)[5]
- 二女・順(内藤新の妻)[5]
- 三女・清[5](せい、1867年 - ?、二代目兼文の妻)[7]
- 養子・二代目兼文[7](1866年 - ?、鳥取県多額納税者、合名会社米子今井書店代表社員)
- 四女・鶴 - 夭逝する[5]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e 今井 兼文とはコトバンク。2023年10月6日閲覧。
- ^ 『帝国医籍宝鑑』491頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月6日閲覧。
- ^ 『日本全国商工人名録』1119頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月6日閲覧。
- ^ a b c d e 『日本医史学雑誌 = Journal of the Japanese Society for the History of Medicine 37(4)(1464)』531 - 532頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月6日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 雪窓之碑(東海綿引泰撰文、米子市寺町 安国寺)。
- ^ a b c d e f g ““創業者について”. 今井書店グループ. 2023年10月6日閲覧。
- ^ a b 『財界二千五百人集 本編』359 - 360頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月6日閲覧。
参考文献
[編集]- 白崎五郎七編『日本全国商工人名録』日本商工人名録発行所、1892年。
- 山口力之助編『帝国医籍宝鑑』南江堂、1898年。
- 『日本医史学雑誌 = Journal of the Japanese Society for the History of Medicine 37(4)(1464)』日本医史学会、1991年。
- 財界二千五百人集編纂部編『財界二千五百人集 本編』財界二千五百人集編纂部、1934年。