仇衡王
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仇衡王 | |
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金官伽倻 | |
第10代国王 | |
王朝 | 金官伽倻 |
在位期間 | 521年 - 532年 |
字 | 仇衡 |
廟号 |
譲王 世宗 |
生年 | 不詳 |
没年 | 不詳 |
父 | 鉗知王 |
母 | 淑 |
仇衡王 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 구형왕 |
漢字: | 仇衡王 |
発音: | クヒョンワン |
日本語読み: | きゅうこうおう |
仇衡王(きゅうこうおう、生没年不詳)は、金官伽倻の第10代にして最後の王(在位:521年 - 532年)。譲王とも。廟号は世宗。父は鉗知王、母は淑である。王妃は桂花、息子に金奴宗、金武徳、金武力[1]がいる。本国は食邑。
人物
[編集]当時の金官伽倻は、西隣の卓淳国、安羅国と伽倻南部の連合を結び、百済との同盟関係を継続した。仇衡王はその最後の王であり、520年代後半になると、新羅の異斯夫らの侵攻を受けた。532年に降伏し、妻子とともに新羅の王都に遷され、貴族である真骨身分と金姓(新金氏)を与えられた。
異説として、韓国の言語学者姜吉云(カン・ギルウン)によれば、仇衡王は禅譲後に日本に渡来し、後に「志帰嶋大王」(のちの欽明天皇(509年 - 571年、在位:539年 - 571年))として即位したと唱えている[2]が、同じ説を鈴木武樹は1975年に『日本古代史99の謎』(94 アメクニオシハラキヒロニハは金官加羅王だったのか)で発表している。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 「アジア人物史 2」集英社、2023年