井手氏
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井手氏(いでし)
橘姓井手氏
[編集]橘氏の祖である橘諸兄公は、京都、山城国綴喜郡井手の地にあそび、井手左大臣と呼ばれる。玉津岡神社を建立。(井手左大臣)
諸兄を祖にして、橘奈良麻呂もまた井手氏を名乗る。その後継である橘氏公もまた井手右大臣と呼ばれる。(井手右大臣)
井手清友、井手右大臣氏公が見える。信濃橘氏、越前の井手氏、安藝の井手氏はいずれも橘姓の井手氏なり。
藤原姓(北家)井手氏
[編集]藤原北家である藤原道隆の支流に、道隆の子に、井手小将入道が見える。その本名は、藤原好親であり、右近衛少将を務めた。
好親の実母が橘清子であり、橘家の系図にあたる。
藤原姓(式家)井手氏
[編集]藤原種継は藤原宇合(藤原式家)の孫。種継の子に、井手湯守という人物がおり、井手宿禰姓を賜る[1](『続日本紀』延暦6年9月27日条)。
肥前国の井手氏
[編集]肥前国藤津郡に見える井手氏は、井手式部左衛橘正良の後裔。大村藩に仕える。鍋島直郷の母は、井手氏の出身。
後に満井家、間家、田川家に分家する。
肥後国の井手氏
[編集]- 井手長門入道道清 : 1424年(応永30年)5月26日、阿蘇惟郷の要求した家臣団への忠誠を誓わせる連署起請文に、「井手長門入道道清」の名がみえる[2](阿蘇家文書写第14)。本貫地は一の宮町中通。
- 井手清右衛門尉豊宣 : 1536年、阿蘇惟将の出陣に際し、千寿丸初陣の祝いとして、赤飯と小一領神社絵巻物を献上。甲斐親直は、「いでやいで御船の城の敵の首わが手の内に握飯かな」と歌を詠んだ[3]。
- 井手玄蕃允豊治(げんばのじょうとよはる) : 1612年、矢部城(矢部愛藤寺)を宮原に移し、宮原町を起こす(『井手文書』「宗門史」)。
- 井手玄蕃允政次 : 1613年、初代矢部郷大庄屋[3]。
- 井手三郎 : 1863年出生。元衆議院議員(中央倶楽部)。
- 井手宣通 : 1912年出生。洋画家。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 太田亮『姓氏家系大辞典』 第1巻、国民社、1942年。doi:10.11501/1123818。全国書誌番号:46005838。