井戸覚弘 (戦国時代)
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 弘治2年(1556年) |
死没 | 寛永15年10月17日(1638年11月22日) |
改名 | 覚弘→覚斎(法名)[1] |
別名 | 通称:十郎、若狭守[1] |
墓所 | 東京都文京区の養源寺 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 筒井順慶→定次→徳川秀忠 |
氏族 | 井戸氏 |
父母 | 父:井戸良弘、母:筒井順昭娘(筒井順慶姉[1]) |
兄弟 |
覚弘、治秀、直弘、筒井秀俊室[1]、 女子(松永氏人質) |
妻 | 土岐氏娘[1] |
子 |
良弘、 辻子兼俊(筒井家家臣・辻子秀俊の養子)、山崎勝家室、伊勢貞晴室[1] |
井戸 覚弘(いど さとひろ[1])は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本。
孫に井戸覚弘[1]。子孫に、幕末に長崎奉行・江戸北町奉行などを務めた同姓同名の井戸覚弘がいる。
生涯
[編集]井戸氏は大和国の国人。父・井戸良弘が尾張国へ赴いて織田信長に仕官する一方、覚弘は井戸城に残って2万石を領し、筒井順慶とその養子定次に仕えた[1]。定次の伊賀国への転封に従い、朝鮮出兵の際は名護屋城へ赴く[1]。その後は織田秀信の配下で朝鮮へ渡り、武功を挙げた[1]。この褒美として、現地で茶碗10個を賜った[1]。覚弘はこの内5個を徳川家康に献上し、余った5個を豊臣秀頼に献上した[1]。家康は献上された内の1個を覚弘に返還したといい、これが井戸茶碗だとする説がある[1]。しかしそれ以前から井戸茶碗の名称は日本の記録にあり、定説ではない[2]。
慶長13年(1608年)、主君・筒井定次が改易されると、大和柳生谷に隠棲し、慶長14年(1609年)に江戸に赴いて徳川家康、秀忠に謁見、3000石を得た[1]。そのまま秀忠の配下となり、常陸国真壁郡・下野国都賀郡に合わせて3040石を賜った[1]。大坂の陣では安藤重信の配下となり、重信の長男重長が若年だったため、命を受けて重長に代わって兵を率いた[1]。寛永10年(1633年)に致仕[1]。長男良弘の石高の内、500石を賜って老後料とした[1]。
寛永15年(1638年)10月17日死去、享年83[1]。養源寺に埋葬された[1]。
参考
[編集]- 「寛政重脩諸家譜. 第6輯」(1923年)