井土周磐
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井土 周磐(いど しゅうばん、天明2年(1782年) - 文久2年6月(1862年)は、江戸時代後期の儒学者(朱子学派)、教育者。号は学圃。字(あざな)は鴻漸。通称は左市、晩年は再稚と称す[1]。福岡藩藩儒[2]。
経歴
[編集]福岡藩士喜多岡元賢の二男として筑前国に生まれる。幼少より井土周徳(南山)に学び、その婿養子となる。寛政12年(1800年)周徳が没し、その家督を継ぎ藩儒となる[2]。
文化3年(1806年)福岡藩の藩校修猷館の準訓導となる。文化5年(1808年)藩に請うて京都に遊学し、経書と歴史を若槻幾斎に学ぶ。朱子学を研修した。帰藩後、修猷館の訓導となり、次いで支藩の秋月藩の藩校に出張講師として講説する。文化11年(1814年)福岡藩藩主黒田斉清の伴読となる[2]。
文政2年(1819年)修猷館の総受持助(副督学、助教)となったが、間もなくその行蹟が藩の忌諱に触れ、文政4年(1821年)免職となり、閑居10余年。その間専ら著作に従事する。その著『博愛心鑑諺解』が、幕府の嘉賞に預かり、天保8年(1837年)再び助教に任命され、安政7年(1860年)に致仕した[2]。