コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

井出正陳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
井出正陳
時代 江戸時代初期 - 中期
生誕 元和6年(1620年
死没 元禄11年9月10日1698年10月13日
改名 法名:日重
別名 通称:長助、甚五左衛門
主君 徳川秀忠
氏族 井出氏
父母 父:井出正成、母:米津田政の娘
兄弟 正陳、長次郎、長八郎、正諶、向井正次室
前妻:田口正広の娘
後妻:大久保包教の娘
正府、大久保忠弘室、朝倉重興室
テンプレートを表示

井出 正陳(いで まさのぶ)は、江戸時代初期の武士

出自

[編集]

井出正成の子であり、井出家(正直系)の系譜である。血筋としては( – 正直正次正成 – 正陳)である。

略歴

[編集]

寛永諸家系図伝』には、正陳について以下のようにある[原 1]。出生は武蔵国で、寛永9年(1632年)13歳の時に徳川秀忠に拝謁し、同11年(1634年)には徳川家光に拝謁する。同13年(1636年)に書院番となったとある。

寛政重修諸家譜』巻第千百(以下『寛政譜』)には『寛永諸家系図伝』以外の事柄として、以下のようにある。寛永18年(1641年)に家督を継ぐ。のち書院番を辞し、 元禄11年(1698年)9月に享年79で死去したとある。

正陳は伊豆国君沢郡土肥村・玉川村・長伏村および田方郡間宮村を知行地としており[1]、計300石であった[2]

家督は子の正府が継いだ。『御家人分限帳』に「三百石 伊豆 甚五左衛門子 井出左門 亥四十七」とあるように[3]、正府(井出左門)に伊豆国の采地300石が引き継がれている。

脚注

[編集]

注釈

[編集]

原典

[編集]
  1. ^ 『寛永諸家系図伝』井出(藤原氏支流)

出典

[編集]
  1. ^ 関東甲豆郷帳 1988, p. 417-419.
  2. ^ 友野 1984, p. 16.
  3. ^ 御家人分限帳 1984, p. 164.

参考文献

[編集]
  • 鈴木寿『御家人分限帳』近藤出版社〈日本史料選書23〉、1984年。 
  • 友野博「徳川初期伊豆国の領主と三島代官所」『歴史手帖』12(4)、1984年、11-17頁。 
  • 関東近世史研究会『関東甲豆郷帳』近藤出版社〈日本史料選書〉、1988年。