井出正陳
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時代 | 江戸時代初期 - 中期 |
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生誕 | 元和6年(1620年) |
死没 | 元禄11年9月10日(1698年10月13日) |
改名 | 法名:日重 |
別名 | 通称:長助、甚五左衛門 |
主君 | 徳川秀忠 |
氏族 | 井出氏 |
父母 | 父:井出正成、母:米津田政の娘 |
兄弟 | 正陳、長次郎、長八郎、正諶、向井正次室 |
妻 |
前妻:田口正広の娘 後妻:大久保包教の娘 |
子 | 正府、大久保忠弘室、朝倉重興室 |
出自
[編集]井出正成の子であり、井出家(正直系)の系譜である。血筋としては( – 正直 – 正次 – 正成 – 正陳)である。
略歴
[編集]『寛永諸家系図伝』には、正陳について以下のようにある[原 1]。出生は武蔵国で、寛永9年(1632年)13歳の時に徳川秀忠に拝謁し、同11年(1634年)には徳川家光に拝謁する。同13年(1636年)に書院番となったとある。
『寛政重修諸家譜』巻第千百(以下『寛政譜』)には『寛永諸家系図伝』以外の事柄として、以下のようにある。寛永18年(1641年)に家督を継ぐ。のち書院番を辞し、 元禄11年(1698年)9月に享年79で死去したとある。
正陳は伊豆国君沢郡土肥村・玉川村・長伏村および田方郡間宮村を知行地としており[1]、計300石であった[2]。
家督は子の正府が継いだ。『御家人分限帳』に「三百石 伊豆 甚五左衛門子 井出左門 亥四十七」とあるように[3]、正府(井出左門)に伊豆国の采地300石が引き継がれている。
脚注
[編集]注釈
[編集]原典
[編集]出典
[編集]- ^ 関東甲豆郷帳 1988, p. 417-419.
- ^ 友野 1984, p. 16.
- ^ 御家人分限帳 1984, p. 164.
参考文献
[編集]- 鈴木寿『御家人分限帳』近藤出版社〈日本史料選書23〉、1984年。
- 友野博「徳川初期伊豆国の領主と三島代官所」『歴史手帖』12(4)、1984年、11-17頁。
- 関東近世史研究会『関東甲豆郷帳』近藤出版社〈日本史料選書〉、1988年。