井出正成
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時代 | 江戸時代初期 |
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生誕 | 文禄5年(1596年) |
死没 | 寛永18年3月29日(1641年5月8日) |
改名 | 法名:春嶺 |
別名 | 通称:金丸、甚之助 |
墓所 | 蓮華寺 |
主君 | 徳川家康、秀忠、家光 |
氏族 | 井出氏 |
父母 | 父:井出正次、母:遠藤飛騨某の娘 |
兄弟 | 正則、仲正、正成、将監、次行、正員、次忠、勘兵衛 |
妻 | 米津田政の娘 |
子 | 正陳、長次郎、長八郎、正諶、向井正次室 |
出自
[編集]出生は伊豆国で、井出正次の三男である。井出家は同族で分家を多く創立しているが、正成は正次の直系にあたる。
略歴
[編集]『寛永諸家系図伝』には、正成について以下のようにある[原 1]。慶長13年(1608年)13歳の時に徳川家康に拝謁し、その後徳川秀忠・徳川家光に仕えた。慶長19年(1614年)に成瀬正武の組に属し、大坂冬の陣および大坂夏の陣に供奉する。寛永18年(1641年)3月29日に46歳で没したとある。
『寛政重修諸家譜』巻第千百(以下『寛政譜』)には、『寛永諸家系図伝』以外の事柄として、以下のようにある。徳川家康に拝謁後に徳川秀忠に奉仕し、小姓を務める。慶長14年(1609年)には家督を継ぐ。同19年(1614年)に小姓組の番士となり、大坂冬の陣・大坂夏の陣に供奉し、寛永2年(1625年)12月には采地の御朱印を賜う。後に番を辞し、小普請となる。墓所については「目白台の蓮華寺に葬る。のち代々葬地とす」とある。
先代の正次は徳川家康朱印状により伊豆国君沢郡に采地300石を宛行われているが[1]、『寛政譜』に「采地の御朱印を賜う」とあるように正成も徳川秀忠朱印状により同地を引き継いでいる[2]。その朱印状は井出の本家に代々伝えられており、後世江戸幕府が旗本・御家人の古文書調査をした際、正成より六代後の井出正英が写を幕府に提出している[注釈 1]。
家督は子の正陳が継いだ。
脚注
[編集]注釈
[編集]原典
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 神崎彰利・下山治久『記録御用所本古文書 近世旗本家伝文書集 上巻』東京堂出版、2000年。
- 藤井讓治『徳川将軍家領知宛行制の研究』思文閣出版、2008年。ISBN 978-4-78421-431-0。
- 中村孝也『新訂 徳川家康文書の研究(新装版)中巻』吉川弘文館、2017年。ISBN 978-4-64273-048-8。