井出正徳
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永4年(1627年) |
死没 | 正徳4年1月2日(1714年2月16日) |
改名 | 法号: 日芳 |
別名 | 通称:太左衛門 |
墓所 | 法輪寺 |
主君 | 徳川家光 |
氏族 | 井出氏 |
父母 | 父:井出正員 母:小山監物某の娘 |
兄弟 | 井出正徳、間宮信政室、石野正積室 |
妻 | 柴田直好の娘 |
子 | 井出正方、正基、正栄、伊東祐竺室、猪子一縄室、玉虫利茂室、井出正栄養女(井出正般室)、間宮信明室、長三郎 |
出自
[編集]井出正徳は、井出正員の子である。正員は分家を創設し井出家(正員系)を興しており、正徳はその次代にあたる。血筋としては( – 正直 – 正俊 – 正信 – 正員 – 正徳)となる。
略歴
[編集]『寛政重修諸家譜』[1](以下『寛政譜』)によると、以下のようにある。
寛永18年(1641年)15歳の時に初めて徳川家光に拝謁する。承応3年(1654年)2月に小姓組に列し、寛文5年(1665年)12月に家督を継ぐ。寛文9年(1669年)閏10月に勤めを賞され黄金三枚を賜る。
天和2年(1682年)6月に納戸頭となり、同年12月23日には廩米三百俵を加えられ[2]、同27日に布衣が認められる。
元禄元年(1688年)8月、勤務よろしからざる事があったとして小普請へ降格し、出仕を停められる[3]。翌年6月には許されるもののなお拝謁を憚り、翌3年(1690年)に許される。
元禄10年(1697年)7月に廩米を采地に改められ、伊豆国君沢郡および常陸国真壁郡の内に700石を知行される。宝永3年(1706年)7月に致仕。正徳4年(1714年)正月2日、享年88歳で死去。墓所については「高田の法輪寺に葬る。のち代々葬地とす」とある。
元禄11年(1698年)『伊豆国知行渡村々高辻覚』より、伊豆国君沢郡各地(上修善寺村・伊豆佐野村・安久村)を知行地としていることが知られる[4]。また、同じく元禄期の郷帳でも同様である[5]。
『寛政譜』の井出正方に「其後病者たるにより、家をつがず」とあるように、正方は家督を継がず正方の子である正矩(正徳の孫)が家督を継いだ。
同族絶家の問題
[編集]正徳の二男であり大宮代官であった井出正基が元禄5年(1692年)11月に死去した。正基は井出家(正俊系)を継いでいたが[注釈 1]、正基には男子が居なかった。そのため生前、弟の正栄に井出家(正俊系)の家督を継がせることを幕府に要望していた。
しかし正基には租税滞りがあり、この家督相続は幕府に認められなかった[6]。結果井出家(正俊系)は絶家となり、『寛政譜』には「治左衛門正基がとき罪ありて家たゆ」とある[1]。また同時に大宮代官も解体となった[7]。
正徳は宝永3年(1706年)7月に致仕し、孫の正矩へ家督を譲った。その際、正栄に200石を分け与えた。これは分家を創設することを意味するが、幕府はこの行いを「思慮なき」と捉えた[1]。幕府は正基の租税滞り分を返納することを、正徳およびその孫の正矩に厳命した。一方『徳川実紀』に「次左衛門某が負金は償ひ納るに及ばずとなり」とあるように、享保4年(1719年)6月には返納が免除されている[8]。以後、井出家(正栄系)は存続している。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第千百一
- ^ 徳川実紀5 1999, p. 468.
- ^ 徳川実紀6 1999, p. 20.
- ^ 韮山町史5上 1989, p. 48.
- ^ 関東甲豆郷帳 1988, p. 417-418.
- ^ 徳川実紀6 1999, p. 683-684.
- ^ 関根 1992, p. 97-101.
- ^ 徳川実紀8 1999, p. 158.
参考文献
[編集]- 鈴木寿『御家人分限帳』近藤出版社〈日本史料選書23〉、1984年。
- 関東近世史研究会『関東甲豆郷帳』近藤出版社〈日本史料選書〉、1988年。
- 韮山町史編纂委員会『韮山町史 第5巻 上』1989年。
- 関根省治『近世初期幕領支配の研究』雄山閣出版、1992年。ISBN 4-639-01111-3。
- 黒板勝美『徳川実紀 第五篇(新訂増補国史大系)』吉川弘文館、1999年。
- 黒板勝美『徳川実紀 第六篇(新訂増補国史大系)』吉川弘文館、1999年。
- 黒板勝美『徳川実紀 第八篇(新訂増補国史大系)』吉川弘文館、1999年。