井上健 (サッカー選手)
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名前 | ||||||
カタカナ | イノウエ タケシ[1] | |||||
ラテン文字 | INOUE Takeshi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1928年9月30日 | |||||
出身地 | 兵庫県西宮市 | |||||
没年月日 | 1992年4月5日(63歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
ユース | ||||||
第一神戸中学校 | ||||||
1948-1951 | 関西学院大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1952-1960 | 新三菱重工 | |||||
代表歴 | ||||||
1953-1954[2] | 日本 | 1 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
井上 健(いのうえ たけし、1928年9月30日 - 1992年4月5日[3])は日本のサッカー選手、日本サッカーリーグ(JSL)第3代総務主事。
ポジションは主にハーフバック(現在のミッドフィールダー)。正確なボールコントロールとキックを持ち味とした。守備だけでなく攻撃も得意で、時にはインナーフォワード(現在の攻撃的MFに相当)としてもプレーした。
経歴
[編集]1928年、兵庫県西宮市に生まれる。1947年春に兵庫県立第一神戸中学校 (現:兵庫県立神戸高等学校) を卒業。大学は一旦は医科大学に進学するも、サッカーをやりたい一心で関西学院大学に入りなおした。サッカー部のチームメイトには長沼健、平木隆三らがいる。卒業後、1952年から1960年までは新三菱重工でプレーし、1956年の都市対抗選手権準優勝などの成績を残す。
日本代表としても1953年から1954年までプレーし、1954 FIFAワールドカップ・予選の1954年3月7日の韓国戦の1試合目で国際Aマッチ1キャップを記録した。また、1953年には西ドイツのドルトムントで開催された国際学生スポーツ週間(ユニバーシアードの前身)の日本代表に選ばれた。この代表は後年に関係者が「戦後第一期サッカー士官学校生」と言い表したように、単に試合をするだけではなく、将来の日本サッカー界を担う人材にヨーロッパで見聞を広めさせることも目的としていた。
引退後はしばらくサッカー界から離れていたが、1972年から1976年までJSL第3代総務主事、1974年から1983年まで日本サッカー協会理事を務めた[3]。
所属クラブ
[編集]- 兵庫県立第一神戸中学校 (現:兵庫県立神戸高等学校) -1947
- 関西学院大学 1948-1951
- 新三菱重工業 1952-1960
代表歴
[編集]出場大会
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 1試合 0得点(1954)[2]
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1953 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 |
1954 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
通算 | 1 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1954年03月07日 | 東京都 | 明治神宮外苑競技場 | 韓国 | ●1-5 | 竹腰重丸 | ワールドカップ予選 |
参考文献
[編集]- スポット・ライト 人物紹介シリーズ1 日本リーグ総務主事 井上健(三菱自工)『サッカーマガジン』ベースボールマガジン社、1972年10月1日号 No.87、94ページ。
- 『歴代日本代表パーフェクト名鑑 サッカーマガジン別冊夏季号』ベースボールマガジン社、2007年、19ページ。
- 賀川サッカーライブラリー - オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(中)