井上与一郎 (衆議院議員)
井上 与一郎(與一郎、いのうえ よいちろう、1855年8月18日(安政2年7月6日[1])- 1907年(明治40年)11月22日[1][2][3])は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、京都府葛野郡嵯峨村長。幼名・種三郎[1]。
経歴
[編集]山城国葛野郡上嵯峨村[1](京都府[2]葛野郡嵯峨村[3]字上嵯峨小字観空寺[1]、嵯峨町を経て現京都市[3]右京区)で、素封家、農業・井上与十郎の三男として生まれる[1]。大覚寺学問所の野口左門に師事し漢学を修めた[1][2][3]。
1875年(明治8年)8月、地租改正の上嵯峨村評価人に就任[1]。上嵯峨村戸長、葛野郡第三区用係、葛野郡第六区戸長兼学区取締、上嵯峨村会議員、同学務委員、連合村会議員、葛野郡社倉取締を務めた[1]。
1883年(明治16年)全ての職を辞して半年間、大阪で漢学を学び、同年12月に帰郷した[1]。天竜寺村上嵯峨村戸長、上嵯峨村外四カ村戸長、所得税調査委員、郡徴兵参事員、嵯峨村会議員などを務め[1][2][3]、1891年(明治24年)嵯峨村長に就任[1][2][3]。
1884年(明治17年)から養蚕事業に取り組み、桑園を設け、村内にも養蚕を奨励し、産繭・米麦などを各地の共進会に出品して数多く入賞を果たした[1]。また、嵯峨村農会の設立に尽力し1891年(明治24年)8月、同会長に就任[1]。その他、京都府農会議員、同参事、同評議員、同議長、葛野郡農会副会長、山城物産会米麦審査委員、簡易農学校建築委員などを務めた[1][2][3]。
1888年(明治21年)1月、京都府会議員に選出され、通算5期在任し、1904年(明治37年)3月に退任[1]。この間、常置委員、地方衛生会委員、郡部会議長なども務めた[1][2]。政党は進歩党に所属し、同党京都支部幹事、同常議員を務め、その後、憲政本党に所属した[1]。
1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙(京都府郡部、甲辰倶楽部)で当選[1][4]、その後大同倶楽部に所属[1][2]。1期目[2]在任中の1907年11月、急性肺炎のため自宅で死去した[1][5]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 京都府議会事務局編『京都府議会歴代議員録』京都府議会、1961年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。