五教館
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五教館(ごこうかん)は、大村藩の藩校。九州では最も早く設立された藩校である。現在は長崎県立大村高等学校。
概要
[編集]寛文10年(1670年)、四代藩主大村純長が、玖島城内桜馬場に藩校を創立した。創立時の名称は集義館であったが、九州地方では最も早く、全国でも七番目の藩校創立であった。元禄7年(1679年)に静寿園と改称され、さらに 寛政2年(1790年)2月15日(旧暦)、九代藩主大村純鎮(おおむらすみやす)が、五教館と改称した。五教館の名称は「君臣義あり、父子親あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり」の五倫道を、教育の綱領としたことに由来する。このとき、演武場として治振軒も設立された。
天保2年(1831年)、十代藩主大村純昌が 本小路に校舎を新築し移転。御成門は現存し、長崎県指定史跡となっている。
家老・用人各一名が館を総括し、その下に学長である祭酒がおかれた。祭酒の下に二名の学頭、五名の監察などが続いた。元治元年(1864年)、祭酒・学頭はそれぞれ教授・助教と改名された。
幕末には五教館の名は全国に知れ渡り、諸藩から100名余りが学びに来た。岩崎弥太郎もその一人であった。
逸話
[編集]文化9年(1812年)、当時の家老の隈鎮豊が五教館学生の不学を嘆き訴え、覚五ヶ条を五教館監察に授けた。
主な出身者
[編集]- 一瀬勇三郎 - 関西法律学校(現:関西大学)第4代校長、広島・函館控訴院長
- 岩崎小二郎 - 秋田県・滋賀県・大分県・福岡県知事、貴族院議員
- 楠本正隆 - 新潟県・東京府知事、第3~5代衆議院議長、元老院議官
- 熊野雄七 - 横浜バンドメンバー、明治学院大学創設者
- 長岡半太郎 - 物理学者、初代大阪帝国大学総長、帝国学士院長、貴族院議員
- 長與專齋 - 内務省衛生局長、東京医学校(現:東京大学医学部)校長、貴族院議員
- 松林飯山 - 儒学者
- 南鷹次郎 - 農学者、北海道帝国大学第2代総長・名誉教授
- 横山寅一郎 - 第2~4代長崎市長、衆議院議員
- 渡邊清 - 福岡県令、元老院議官、貴族院議員、福島県知事
- 渡邊昇 - 大阪府知事、元老院議官、会計検査院長、貴族院議員
- 橘公穀 - 大村藩東征軍半隊長のち小隊長、陸軍大尉、福岡師範学校初代校長
- 橘彪四郎 - 駒場農学校(東京大学農学部前身)卒、東山学院教頭、長崎私立英和学校校長、福井県立福井農学校校長
参考文献
[編集]- 『もう一つの維新史 長崎・大村藩の場合』外山幹夫/著 新潮選書 1993年、ISBN 978-4106004506