五十嵐浚明
五十嵐 浚明 | |
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栗原信充『肖像集』の内 | |
生誕 |
元禄13年(1700年) 越後国新潟 |
死没 |
天明元年8月10日(1781年9月27日) 越後国新潟 |
墓地 | 新潟市善導寺 |
教育 | 狩野良信栄信、竹内式部 |
代表作 | 『大黒天図』『三十六歌仙図』『笑山全悦像』 |
流派 | 狩野派、土佐派、南宋派、北宋派、大和絵 |
配偶者 | 伊藤氏 |
メモリアル | 呉浚明碑(日長堂)、孤峰五十嵐先生墓誌銘(善導寺) |
影響を受けた 芸術家 | 梁楷、李公麟、張平山、狩野雅楽亮 |
影響を与えた 芸術家 | 広島維明、森蘭斎、芳明、加賀千代女 |
五十嵐 浚明(いからし しゅんめい[1]、元禄13年(1700年) - 天明元年8月10日(1781年9月27日))は江戸時代中期の新潟の絵師、漢詩人。本姓は藤原、修姓は呉。諱は安信、後に浚明[2]。字は方篤、後に方徳[3]。号は思明[4]、孤峰、穆翁、竹軒[2]。江戸で狩野良信栄信に狩野派、京都で竹内式部に経学を学び、宇野明霞・片山北海・池大雅等と親交した。
生涯
[編集]元禄13年(1700年)[2]越後国新潟に[5]佐野義直の子として生まれた[2]。幼くして両親を失い、五十嵐五郎兵衛に養育され、佐野家の存続を助けられた。後にその恩義に報いるため、自ら五十嵐姓を名乗った[6]。4歳の時から絵を好み[2]、家業の農業に従事しながら[6]、僧可存に手解きを受けた[7]。
享保15年(1730年)頃江戸に出て[8]、根岸御行松家狩野良信栄信に師事したが[3]、満足できず帰郷した[9]。また、江戸では室鳩巣に学問を学び、後に自ら多くの生徒を教えたという[10]。
次いで京都に出て[8]、同郷竹内式部に経学を学び、宇野明霞等と親交し、同郷片山北海を明霞に入門させた[11]。梁楷の「八仙人図」、李公麟の横軸、張平山の人物画、狩野雅楽亮の「朱梅図」等を手本に[12]狩野派・土佐派・南宋画・北宋画・大和絵等諸派の技法を吸収した[13]。
在京中法橋に叙され、延享元年(1744年)法眼に進み、同年帰郷した[14]。帰郷の際、式部から「送五十嵐浚明君還越後」、明霞から「送法橋嵐君帰還越後」[15]、池大雅から「渭城柳色図」(敦井美術館所蔵)[16]、近衛家から呉絹、徳大寺家から紋綸子を贈られた[17]。
帰郷後、自宅に楼閣を建て、画業専念を決意して篭ったものの、数十日後類焼し、再建されるまで蔵で生活した。村民の窮状を聞くと始めて門を出て、役人に蔵米を開放させたという[18]。宝暦7年(1757年)4月信濃川・阿賀野川の決壊等により飢饉が発生すると[19]、家財を売却して被災者に衣食を供与した[20]。
宝暦9年(1759年)芝山重豊に呉姓を賜ったが[14]、明和6年(1769年)五十嵐姓に復した[19]。宝暦12年(1762年)7月京都で知り合った高砂豪商三浦迂斎の訪問を受け、『逆旅勧盃一大冊子』を贈呈した[21][22]。
帰郷後もしばしば上方に上り、明和2年(1765年)大坂で明霞門下大典顕常に詩を贈られ、安永2年(1773年)には京都で北海同人服部永錫の『縮地玅詮帖』に「寿老人図」を寄せている[23]。安永6年(1777年)上京して[24]後桃園天皇に松鶴・寿老人等の絵三幅を献上し、歌所山科中納言を通じて油小路隆前・冷泉為泰・中院通古・藤谷為敦・甘露寺篤長による五色の和歌を賜り、長岡藩[要曖昧さ回避]からも白銀五枚を賜った[25]。
70代以降[21]、三晩続けて夢に富士山を見たことに因み、孤峰と号した[2]。
天明元年(1781年)3月白山神社、両親の墓に詣でて死期を告げ、親戚に別れの挨拶を述べた[26]。7月食欲が減退するも、薬を飲まず[26]、8月10日死去し、15日善導寺に葬られた[7]。法名は孤峰院俊明義大居士[7]。
代表作
[編集]作品 | 技法 | 形状・員数 | 寸法 (縦x横cm) | 所蔵 | 年代 | 備考 |
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三十六歌仙図 | 絹本着色 | 絹本十六枚、扁額一面 | 各図18.2x16、扁額139x222 | 新潟大神宮 | 元は桐箱入画帳。1902年(明治35年)3月古町通七番町紙商藤井忠太郎奉納[27][28]。1974年(昭和49年)11月3日新潟市文化財指定第1号[29]。 | |
大黒天図 | 紙本墨画 | 一幅 | 71.0x26.2 | 新潟市歴史博物館 | 40歳頃 | 竹内式部賛。鈴木長蔵、栗林徳一旧蔵[30][31]。新潟市文化財指定第1号[29]。 |
笑山全悦像 | 一幅(全十九幅) | 97x38 | 宗賢寺 | 元文4年(1739年)賛 | 同寺開山笑山全悦頂相。百回忌に際し黙子素淵賛。1979年(昭和54年)2月9日横越村文化財指定第4号[32]。(新潟市指定文化財)[33] | |
梅花丹頂鶴図/柳牡丹白鷺図 | 紙本着色 | 六曲一双 | 各159.0x348.0 | 正福寺 | 安永元年(1772年) | 本町通七番町紙問屋檀家旧蔵[34]。 |
宇治川先陣図 | 絹本着彩 | 双幅 | 各37.0x99.2 | 敦井美術館 | 明和8年(1771年) | [35] |
屋島合戦図 | 絹本着色 | 58.8x91.4[36] | 新潟放送所有、新潟市美術館寄託[37] | 安永元年(1772年) | 源義経・弁慶、那須与一の扇の的、藤原景清の錣引等を描く[13]。 | |
中国武将図屏風 | 紙本著色 | 六曲一双 | 各159.2x336.0 | 新潟県立近代美術館・新潟県立万代島美術館 | [38][39] | |
画稿 孔明図/画稿 張飛図 | 二枚 | 新潟市歴史博物館 | 明和2年(1765年) | 松前藩依頼作の下絵[4]。 | ||
洗馬図 | 絵馬 | 高砂神社 | 60代末 | 明和7年(1770年)廻船問屋菅野五郎兵衛善郷奉納[40]。 | ||
群鶴図屏風 | 六曲一双 | 新潟市歴史博物館 | [41] | |||
商山四皓図/虎渓三笑図 | 双幅 | 各114.0x66.0 | 十輪寺 | 60代 | 安政6年(1859年)寄付[42]。 | |
山水図巻 | 紙本墨画 | 巻子一巻 | 15.5x534.2 | 早稲田大学會津八一記念博物館 | 宝暦7年(1757年)題詩[43] | 1948年(昭和23年)會津八一が新潟市内で購入[40]。 |
龍虎図屏風 | 紙本墨画 | 八曲一双 | 各隻420.0x158.5 | 彌彦神社 | 明和5年(1768年) | [36][44] |
高士観瀑図屏風 | 紙本墨画淡彩 | 六曲一双 | 各隻142.5x335.0 | 個人 | 明和7年(1770年) | [36][44] |
竹林賢人図 | 絹本墨画淡彩 | 50.5x111.0 | 中野邸記念館 | 明和5年(1768年) | [36] | |
西王母図 | 絹本着色 | 一幅 | 113.3x36.2 | 個人 | 安永6年(1777年) | [45] |
文王田渭陽図 | 絹本墨画淡彩 | 一幅 | 64.0x129.0 | 個人 | 明和7年(1770年) | 文王が渭水で釣りをする呂尚に会いに行く場面を描く。1931年(昭和6年)11月17日新潟超願寺で行われた中蒲原郡高橋家・西蒲原郡山田家両家所蔵品入札に出品[46]。 |
松竹梅鶴図屏風 | 紙本着色 | 六曲一双 | 各151.1x319.0 | 室生寺 | 前半期 | [47] |
富士・橋立・松島図 | 絹本淡彩 | 三幅 | 各102.0x34.0 | 個人 | 宝暦5年(1755年)賛 | 広橋兼胤・久我通兄・柳原光綱賛[48]。 |
天神湧現図 | 絹本着色 | 一幅 | 110.0x44.0 | 個人 | 延享2年(1745年)2月賛 | 南禅寺294世魯山玄璠賛。束帯姿の菅原道真を描く[49]。 |
押絵貼人物山水鳥獣屏風 | 六曲一双 | 新潟市歴史博物館 | 明和4年(1767年) - 明和5年(1768年) | 新潟町個人旧蔵[21]。 | ||
押絵貼山水図屏風 | 六曲一双 | 新潟市歴史博物館 | 60代前半 | 沼垂町個人旧蔵[50]。 | ||
梅/旭日鶴/松 | 三幅 | 宮崎県立図書館杉田文庫 | [51] | |||
老子 | 絹本着色 | 一幅 | 43.8x33.5 | 大英博物館 | アーサー・モリスン、ウィリアム・グウィン・エヴァンス旧蔵。1913年寄贈[52]。 | |
岳陽楼 | 紙本墨画淡彩 | 35.8x62.5 | ホノルル美術館 | 池大雅賛。1970年購入[53]。 | ||
Pale landscape | 紙本墨画 | 六曲一双 | 各174.0x346.0 | オーストラリア国立美術館 | 安永3年(1774年) | 2014年購入[54]。 |
詩集
[編集]人物
[編集]孝行心が篤く、京都から帰郷した時、母が病気に罹ったため、毎晩左指の血で観世音菩薩普門品1部を写経し、7部目で快復したという。父母の死後は、毎朝その生前座っていた場所を拝み、決して踏むことがなかった[56]。
3人の子供にも絵を学ばせ、「絵は小道ではあるが、世間の教化に役立つものである。筆を取ったら、必ず賢哲の偉業を描き、決して軽々しい題材を扱って人を貶しめてはならない。」と戒めた[57]。
日頃菅原道真を信仰し、ある夜夢に道真に十字の金泥書を与えられ、画業の成業を悟ったという[56]。
酒を好まず、ある人に「酒は愁いを払う箒だ。」と勧められると、「私は幸い太平の世に生まれ、六経の教えに浴し、漢詩・書道・絵画に興じ、楽しみは余りある。愁いを感じたことはないので、箒を用いる必要はない。」と答えたという[58]。
死ぬ2日前、医師三浦東里が訪れ、「先生は名を遠近に広め、歳は80を越え、墓を託す子孫もいる。こんな人生なら心残りはないのではないか。」と尋ねられ、「その通りだ。私は国法に触れず、孝行を全うし、楽しむことを楽しみ、貧しさを忘れることができた。すべて両親のおかげである。」と答えたという[18]。
漢詩は五言詩を得意とした[59]。遊印「玩天地于掌握之中」は『淮南子』精神訓に拠る[34]。
門弟
[編集]記念碑
[編集]- 「呉浚明碑」 – 寛政12年(1800年)9月柴野栗山撰、巻菱湖書。1889年(明治22年)孫佐野北汀等が新崎日長堂に建立[62]。
- 「書呉浚明碑陰」 - 1889年(明治22年)11月蒲生重章撰、巌谷修書[63]。日長堂に堂主古山文静が建立[64]。
- 「孤峰五十嵐先生墓誌銘」 – 天明2年(1782年)3月片山北海撰、文政13年(1830年)10月永根伍石書[14]。子孫等が善導寺に建立[65]。
- 「五十嵐浚明之墓」 - 1913年(大正2年)追善会が善導寺に建立[66]。
家族
[編集]- 父:佐野義直 - 商人[2]。岩船郡五十嵐久右衛門三男。幼名は久太[9]。
- 妻:伊藤氏[67]
- 長男:五十嵐顧行(伯謹、子謹)
- 次男:五十嵐片原(元誠)
- 三男:佐野元敬
- 娘 - 同郷岩田家に嫁いだ[67]。
脚注
[編集]- ^ 岩田 2014, p. 27.
- ^ a b c d e f g 桜井 1914, p. 15.
- ^ a b 横山 1984, p. 143.
- ^ a b 大森 2006.
- ^ 横山 1984, p. 132.
- ^ a b 藤山 1898, p. 176.
- ^ a b c d e 大森 2015, p. 3.
- ^ a b 横山 1984, p. 140.
- ^ a b 大森 2015, p. 13.
- ^ 新潟市 1959.
- ^ 桜井 1914, pp. 15–16.
- ^ 横山 1984, p. 135.
- ^ a b 大森 2015, p. 4.
- ^ a b c 大森 2015, p. 14.
- ^ 桜井 1914, pp. 19–20.
- ^ 横山 1984, pp. 140–141.
- ^ 坂口 1918, p. 118.
- ^ a b 藤山 1898, p. 178.
- ^ a b 大森 2015, p. 2.
- ^ 桜井 1914, p. 21.
- ^ a b c 大森 2015, p. 7.
- ^ 中村 2016, p. 26.
- ^ 中村 2016, pp. 26–28.
- ^ 中村 2016, p. 25.
- ^ 桜井 1914, pp. 16–17.
- ^ a b 桜井 1914, p. 18.
- ^ 池政栄「五十嵐浚明筆 三十六歌仙」『市報にいがた』第431号、新潟市役所、1975年1月15日。
- ^ “五十嵐浚明筆 三十六歌仙図 扁額”. ラ・ラ・ネット. 新潟県立生涯学習推進センター. 2018年3月16日閲覧。
- ^ a b 「新潟市文化財を指定」『市報にいがた』第424号、新潟市役所、1974年11月5日。
- ^ 池政栄「竹内式部賛・五十嵐浚明筆 三十六歌仙」『市報にいがた』第427号、新潟市役所、1974年12月5日。
- ^ “大黒天図 五十嵐浚明筆 竹内式部賛”. ラ・ラ・ネット. 新潟県立生涯学習推進センター. 2018年3月16日閲覧。
- ^ 「村指定文化財第4号 宗賢寺(横越下)保管の頂像画(禅僧の消像画)に決定」『広報よこごし』第83号、横越村役場、1979年4月5日。
- ^ “宗賢寺歴世住職肖像画”. ラ・ラ・ネット. 新潟県立生涯学習推進センター. 2018年3月16日閲覧。
- ^ a b 岩田 2014, p. 30.
- ^ 『小林古径や土田麦僊ら新潟出身作家の絵画・工芸展』敦井美術館、2016年3月16日 。
- ^ a b c d “開館記念3周年記念企画展 新潟・文人去来 ― 江戸時代の絵画をたのしむ ―”. 新潟市歴史博物館. 2018年3月16日閲覧。
- ^ “寄託資料一覧”. 新潟市美術館 (2011年3月25日). 2018年3月16日閲覧。
- ^ 「新潟の日本画100年」『平成25年度 新潟県立近代美術館/新潟県立万代島美術館 年報』、新潟県立近代美術館/新潟県立万代島美術館、2013年3月10日。
- ^ “2682_中国武将図屏風”. 写真原板データベース(4×5カラー). 東京文化財研究所. 2018年3月16日閲覧。
- ^ a b c 大森 2015, p. 15.
- ^ 大森 2015, p. 5.
- ^ 大森 2015, pp. 12, 15.
- ^ “山水図巻”. 會津八一コレクション 近世書画. 早稲田大学. 2018年3月16日閲覧。
- ^ a b 岩田 2014, p. 37.
- ^ “5469_西王母図(個人蔵)”. 年紀資料集成. 東京文化財研究所. 2018年3月16日閲覧。
- ^ 中村 2016, pp. 23–24.
- ^ 中村 2016, p. 24.
- ^ 中村 2016, pp. 24–25.
- ^ 中村 2016, pp. 25–26.
- ^ 大森 2015, p. 10.
- ^ “五十嵐俊明画”. 貴重書デジタルアーカイブ. 宮崎県立図書館. 2018年3月16日閲覧。
- ^ “painting / hanging scroll”. The British Museum. 2018年3月14日閲覧。
- ^ “The Yueyang Pavilion”. Honolulu Museum of Art. 2018年3月14日閲覧。
- ^ “Pale landscape”. The National Gallery of Australia. 2018年3月14日閲覧。
- ^ 猶興社編輯所『北越孝子伝』樋口書屋、1894年7月。NDLJP:778699/40
- ^ a b 藤山 1898, p. 177.
- ^ 藤山 1898, p. 179.
- ^ 新 1888, pp. 35–36.
- ^ 坂口 1918, p. 113.
- ^ 横山 1984, p. 139.
- ^ 大森 2015, pp. 2, 14.
- ^ 横山 1984, pp. 132–135.
- ^ 桜井 1914, pp. 29–30.
- ^ 横山 1984, p. 142.
- ^ 横山 1984, p. 134.
- ^ 岩田 2014, p. 36.
- ^ a b 桜井 1914, p. 22.
- ^ a b 岩田 2014, p. 29.
参考文献
[編集]- 歓励『後越碑銘集』 初篇、知新舘、文化14年(1817年)序 。
- 白井華陽『画乗要略』 巻二、弘簡堂、天保2年(1831年)序 。
- 新貞斎『鼇頭語叢 記事論説文梯』 巻上、井口松之助、1888年12月。NDLJP:864489/30。
- 藤山鋹太郎『近世越佐人物伝』樋口小左衛門、1898年9月。NDLJP:777631/105。
- 桜井市作『船江遺芳録』桜井市作、1914年9月 。
- 今泉鐸次郎『北越名流遺芳』 第1集、目黒書店、1918年6月。NDLJP:1185239/11。
- 坂口仁一郎『北越詩話』 上巻、目黒甚七、1918年11月 。
- 「新潟新風土記 五十嵐片原 附再び浚明の事」『市報にいがた』第46号、新潟市役所、1959年1月5日。
- 横山秀樹「近世越後の絵画 ―五十嵐浚明の一考察―」『新潟史学』第17号、新潟郷土史研究会、1984年。
- 大森慎子「資料から探る―五十嵐浚明」『帆檣成林』第8号、新潟市歴史博物館、2006年10月。
- 岩田多佳子「正福寺所蔵の五十嵐浚明および孫の作品について」『平成25年度 新潟市文化財調査概要』、新潟市教育委員会、2014年12月。
- 大森慎子「五十嵐浚明の作品に関する一考察」『新潟市美術館・新潟市新津美術館研究紀要』第3号、新潟市美術館・新潟市新津美術館、2015年3月。
- 中村里那「新潟の絵師五十嵐浚明 ―その活動と評価―」『鹿島美術財団年報』第34号、鹿島美術財団、2016年。