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五十嵐光彰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

五十嵐 光彰(いがらし みつあき、 1865年9月2日慶応元年7月13日[1])- 1913年大正2年〉4月24日[2])は、明治時代に活躍した日本の実業家ジャーナリスト官吏東京通信社社長・主幹(第2代)、警保局(現・警察庁警部[3][4][5][6]

人物・経歴

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豊後国速見郡杵築(現大分県杵築市)で杵築藩士五十嵐光彬の二男として生まれ[1][7]1890年(明治23年)4月に家督を相続した[1]

大阪英和学舎(現・立教大学)で学ぶ[8]テオドシウス・ティングによって、先の聖テモテ学校を復興して、1879年(明治12年)に開校された英和学舎は、1887年(明治20年)に東京の立教大学校と合併して閉校するまでのおよそ8年の間に、聖職者元田作之進、近重利澄、小林彦五郎、実業家に大塚惟明、寺岡踏正(旧・平井忠介)、的場松太郎、山根虎二郎、五十嵐光彰、土屋元作、教育者に松村松年、土生靑(土生青)、栃谷六三郎、新聞記者に水田栄雄(水田南陽)、永松達吾、粟屋関一、医師に深澤鑒十郎(深澤鑑十郎)、官吏に久芳直介など、多くの名士を輩出した[8]

その後、警保局(現・警察庁)にて、警部を務める[3]

1892年(明治25年)、高橋長秋(初代社長)に次いで東京通信社の社長(第2代)に就任し、主幹(第2代)を務める[3][4][5]。この東京通信社は時事通信社(現在の時事通信社とは無関係)が社内紛争のため3年足らずで休業状態になった後、その時事通信社を立ちあげた警保局長の清浦奎吾(第23代内閣総理大臣)によって1890年(明治23年)11月に国庫の資金により創設された官僚通信社であった[3]。(参考:日本の通信社史
同社の幹部社員はいずれも官吏出身者で占め、探訪社員のほとんど全ては巡査の古手を採用し組織も社風もすべて官僚式であった。本社は京橋区木挽町(現・中央区銀座)に堂々とした社屋をかまえ、電報局は同社が発信する電報を、官報並みに優先的に扱う特権も与えていた[3]。政府関係のニュースは同社を通じて発表されることになったことから、同社の前には各新聞社の政治部長や編集長格の者らの人力車が列をなしたという[6]
同社の社長や主幹には高橋長秋や五十嵐光彰のほか、時事通信社の主幹であった二宮熊次郎、その後、福島宜三岡本武雄といった官僚系や、政党人が相次いで務めた。通信内容は政論を主に取り扱ったほか、各省庁の発表を内容として、経済や社会問題は扱わなかった[3]

同1892年(明治25年)8月には、五十嵐は品川弥二郎国民協会の遊説に、佐々友房衆議院議員)とともに京都の演説から付き従って同行した[5]

五十嵐は社長として部下をよく統率し、社内の規則を正して、熱心に事業運営を進めた。また、五十嵐は東京通信が万年御用通信では将来の発展性が乏しいとして、次第に政府機関の様相を薄めていき業績を上げることに専念した[3]

1906年(明治39年)に五十嵐が発病し[注釈 1]、主幹であった加治寿衛吉が社長職を継ぎ[3][6]、次いで1916年(大正5年)には、本田親清、本田周一の父子がそれぞれ続いて社長となった[3]

1913年4月、療養先の千葉県安房郡北条町(現館山市)で死去した[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 「【第二章】わが国初期の通信社とその消長」『通信社史 1958』35頁では1906年に病没とあるが誤り。

出典

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  1. ^ a b c 『人事興信録 第2版』人事興信所、1908年、い73-74頁。
  2. ^ a b 『大正過去帳 : 物故人名辞典』東京美術、1973年、16頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 【第二章】わが国初期の通信社とその消長」『通信社史 1958』、財団通信社史刊行会編、1958年、21-60頁。 
  4. ^ a b 東海国立大学機構学術デジタルアーカイブ 『回天実記』
  5. ^ a b c 池田 さなえ「<研究論文>明治期日本における政治家ネットワーク形成 : 品川弥二郎・京都尊攘堂人脈の分析から」『日本研究』第66巻、国際日本文化研究センター、2023年3月、7-73頁、ISSN 24343110 
  6. ^ a b c 【第一章】新聞通信事業の起源」『通信社史 1958』、財団通信社史刊行会編、1958年、1-19頁。 
  7. ^ 『大分県人士録』大分県人士録発行所、1914年、147頁。
  8. ^ a b 立教史データベース 『雑録/旧英和学舎を憶ふ 元田作之進』 基督教週報第8巻第15号,1903年12月11日