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二見 (伊方町)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本 > 愛媛県 > 西宇和郡 > 伊方町 > 二見 (伊方町)
二見
大字
地図北緯33度28分10秒 東経132度17分41秒 / 北緯33.46944度 東経132.29472度 / 33.46944; 132.29472座標: 北緯33度28分10秒 東経132度17分41秒 / 北緯33.46944度 東経132.29472度 / 33.46944; 132.29472
座標位置:町見中学校跡付近
日本の旗 日本
都道府県 愛媛県の旗 愛媛県
西宇和郡
市町村 伊方町
人口情報(2020年10月1日)
 人口 454 人
 世帯数 222 世帯
郵便番号 796-0422
市外局番 0894
小学校区 伊方町立九町小学校
中学校区 伊方町立伊方中学校
ウィキポータル 日本の町・字
愛媛県の旗 ウィキポータル 愛媛県
ウィキプロジェクト 日本の町・字
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二見(ふたみ)は、愛媛県西宇和郡伊方町にある大字[1]。藩政期から二見浦と呼ばれており、1889年(明治22年)の町見村 [2]当時からの大字名。町見村は昭和の大合併により伊方町となり、現在に至る。「二見」は現在も続く字名。佐田岬半島の中東部、宇和海側の農漁村。

地理

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位置・地形

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佐田岬半島の中部、やや東寄り。南は宇和海に面し、北は瀬戸内海伊予灘)に面している。東は九町。西は旧瀬戸町の塩成に接する。

佐田岬半島の背稜部は150から220メートル級の山々が連なっており、宇和海側と瀬戸内側とをくっきりと分けている。頂上部を国道197号、通称メロディーラインが走る。国道から主要集落である二見本浦へは、くねくねと屈曲した道路を降りていく形となる。

地域名の由来

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宇和海に突き出た「さざえ碆」[3]伊勢二見浦に似ていたことからと伝えられる。

社会

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地域・集落

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一帯は宇和島藩が統治した時期から二見浦と呼ばれており、枝浦に加周(かしゅう)浦。

6集落あり、地域は3つに大別される。

  • 宇和海側の二見
  • 同じく宇和海側の西部亀ケ池周辺に加周(かしゅう)、田之浦古屋敷(ふるやしき)。
  • 瀬戸内(伊予灘)側の大成(おおなる)、鳥津(とりづ)
先の4集落が古くから開けた集落。大成(おおなる)は天保11年に[4]、同じく鳥津は慶応3年に瀬戸内(伊予灘)側に開かれた集落。

人口・世帯数

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  • 1960年(昭和35年) 8693人、441戸
  • 2020年(令和2年) 454人、222世帯

主要施設

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旧町見村の頃から、公共施設の多くは二見より人口の多い九町地域に立地していた。

  • 公民館
  • 二見小学校  町見小学校へと統合され閉校。
  • 町見中学校 伊方中学へと統合され閉校[5]。跡地は旧校舎を再利用し1999年(平成11年)に「町見郷土館」となっていたが、その後2023年(令和5年)3月31日にて閉館した。所在地: 愛媛県西宇和郡伊方町二見甲813-1
  • 加周保育所

歴史

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藩政期宇和島藩の領地。はじめ保内郷に、のちに保内組に所属。当時の主要産業はイワシ網漁。庄屋は二見茂兵衛、野田家、二宮家と変遷した。

産業

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漁業と柑橘類を中心とした農業が主産業。柑橘は甘夏柑を主に産した。

明治末期から太平洋戦争後まで忠誠、二見の2つの銅鉱山があり、それぞれ100から250人の従業員が従事するなど繁栄したが、太平洋戦争後まもなくの昭和20年代後半には衰退していった。

出身の人物・ゆかりの人物

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関連項目

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  • 九町 – 二見とともに旧町見村を構成した大字。二見の東隣に位置する。

注釈

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  1. ^ 地名表記上「大字」は略す
  2. ^ 「町見」は明治の町村制成立時に「二見」と「九町」の一字ずつを取り命名した
  3. ^ 『角川日本地名大辞典38愛媛県』による
  4. ^ 文政13年の漁業紛争である二見騒動の首謀者の一人である加周浦の仙蔵が禁足御免の後開拓。
  5. ^ 町見中学校は1956年(昭和31年)に鉱屑埋め立て地を利用して、それまで九町校舎と二見校舎に分かれていたものを統合新築したもの

出典・参考文献

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  • 『角川日本地名大辞典38愛媛県』