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二条寛斎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
二条寛斎
時代 江戸時代後期
生誕 不明
死没 文久3年(1863年)7月27日
氏族 二条家
父母 父:二条斉敬
兄弟 正麿四条隆英慶光院利敬寛斎
男、宍戸元礼正室
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二条 寛斎(にじょう かんさい)は、江戸時代後期の人物。左大臣二条斉敬の落胤とされる。徳大寺家の家司であったとする説もあるが不明。

概要

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文久3年(1863年)7月27日に紫野大徳寺付近(北紫竹)で寛斎夫妻が殺害された。『七年史』や渋沢栄一は「二条殿」の落胤としている。中山忠能は日記に「白綸子小袖・紫指袴着用と云々、二条家に寛斎と云う人これあり。其者の男子と云々」と記しており、殺害されたのは寛斎の子としている[1]

後に二条孝光という人物が末裔を称した。

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 松田敬之『次男坊たちの江戸時代 公家社会の〈厄介者〉 』(吉川弘文館、2008年)