二条寛斎
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 文久3年(1863年)7月27日 |
氏族 | 二条家 |
父母 | 父:二条斉敬 |
兄弟 | 正麿、四条隆英、慶光院利敬、寛斎 |
子 | 男、宍戸元礼正室 |
二条 寛斎(にじょう かんさい)は、江戸時代後期の人物。左大臣・二条斉敬の落胤とされる。徳大寺家の家司であったとする説もあるが不明。
概要
[編集]文久3年(1863年)7月27日に紫野大徳寺付近(北紫竹)で寛斎夫妻が殺害された。『七年史』や渋沢栄一は「二条殿」の落胤としている。中山忠能は日記に「白綸子小袖・紫指袴着用と云々、二条家に寛斎と云う人これあり。其者の男子と云々」と記しており、殺害されたのは寛斎の子としている[1]。
後に二条孝光という人物が末裔を称した。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 松田敬之『次男坊たちの江戸時代 公家社会の〈厄介者〉 』(吉川弘文館、2008年)