亀ヶ森光広
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亀ヶ森 光広(かめがもり みつひろ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。稗貫氏の家臣。陸奥国稗貫郡亀ヶ森城主。図書と称した[1]。
略歴
[編集]亀ヶ森氏は稗貫郡の国人で、稗貫氏の一族であるという[2]。天文9年(1540年)、八十沢氏に代わって亀ヶ森城主となった[1]。
弘治3年(1557年)3月、光広は稗貫氏に背いた。これに対し稗貫為嗣は家臣の槻木下総守光治、矢沢右近春眞に命じて光広を討つための軍を出すが、光広はこれをよく防ぎ、逆に光治を討ち取って勝利を収めた[3]。
その後、亀ヶ森城の最後の城主である亀ヶ森玄蕃家衡は天正18年(1590年)、稗貫氏の没落とともに所領を没収されるが、当時絶世の美女と謳われ「稗貫御前」と呼ぼれていた於三の方(稗貫広忠の夫人)を南部信直のもとに輿入れさせ、稗貫氏の再興を図った。しかし信直の死によって計画は頓挫するが、家衡は南部氏に仕えて旧領700石を与えられた[4]。