乾豆波斯達阿
乾豆波斯達阿(げんずはしだちあ、生没年不詳)は、『日本書紀』に現れる吐火羅の人物。
記録
[編集]「乾豆」は「インド」、「波斯」は「ペルシャ」であり、「達阿」はインド人の人名の語尾であると言われており、固有人名ではないのではないか、と言われている。
とある。
その後、斉明天皇3年(657年)、「覩貨邏国」の男2名が奄美大島へ辿り着いたと誤認して筑紫に漂流したとあり[2]、5年(659年)、吐火羅人が妻の舎衛婦人とともにやって来たともある[3]。
これらの記事は同じ一行の記録を記したものであり、暴風雨に遭い、ばらばらに漂着したものと考えられる。そして、一行の首領が後述する乾豆波斯達阿(げんずはしだちあ)なのではないか、と想定される。
『日本書紀』巻第二十五・二十六・二十九には、「吐火羅」・「覩貨邏」・「墮羅」や、「舎衛」と表記される国が登場する。前者は中国側の史料に登場する「大夏」(トハラ)のことであるとする説や、耽羅とする説もあるが、 タイのメナム川下流に存在したドヴァーラヴァティー王国に比定する説もある。「舎衛」はインドのガンジス川中流のコーサラ国の王都である舎衛城(シュラーヴァスティー)のこととされている。旧唐書の南蛮伝の墮和羅の条によると、ドヴァーラヴァティーは貞観12年(640年)と23年(649年)に唐に遣使をしており、上記の吐火羅人の漂流の記録と時期が符合する。
斉明天皇6年(660年)、同国の人である乾豆波斯達阿が元の国に帰ろうとして送使に、
「願はくは後に大国(やまと)に朝(つかへまつ)らむ。所以(このゆゑ)に妻を留(とど)めて表(しるし)とす」
と言って、数十人と西の海の路にはいっていった、という[4]。その後、彼らがどうなったのか、記録が残っていないので分からない。
残された「舎衛」と「墮羅」の女たちは、天武天皇4年(675年)の1月に、大学寮の学生・陰陽寮・外薬寮・百済王善光・新羅の仕丁らとともに、薬および珍しいものを捧げて進上した、という[5]。