乾常美
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乾 常美(いぬい つねみ、1914年(大正3年)9月21日 - 2007年(平成19年)9月18日[1])は、高知県出身の郷土史家。随筆家。国府史蹟保存会会長、南国史談会会長、南国市文化財審議会委員。清和源氏土岐氏支流乾氏・乾和信の分家の子孫(和信の14世孫[2])にあたる。板垣退助の監修による『自由党史』を執筆した和田三郎は親戚。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]- 1914年(大正3年)9月21日、乾準吉の三男として高知県長岡郡国府村(現・南国市)左右山479番地に生まれる。兄2人が早世したため、事実上の長男として育つ。母は乾明扶の妹 鹿於(志かお)。
- 1932年(昭和7年)、高知県立農業学校を卒業し、高知県農林耕地課へ奉職。
- 1935年(昭和10年)5月22日、土陽新聞へ「外人部隊を見て」という映画の感想文を投稿し採用されたのをきっかに、戦前、戦中、戦後を通じて新聞、雑誌に感想、随筆、歴史研究など多岐にわたる原稿を投稿。のち評判となって、多方面から執筆依頼を受け、以後70年近くに亘って執筆活動を行うこととなった。(三度の応召出征や、シベリア抑留などを経験。司馬遼太郎が『功名が辻』を執筆の時、来高した司馬を接待した[3][4])
軍歴
[編集]- 1938年(昭和13年)9月27日、高知歩兵第44聯隊へ応召入隊。
- 1939年(昭和14年)4月8日、南支派遣第21軍独立歩兵第70大隊に転属。4月10日、坂出港出帆。4月18日、広東省黄浦港に上陸。6月21日、汕頭港に上陸。
- 1940年(昭和15年)12月12日、内地帰還のため、汕頭港出帆。12月20日、宇品港上陸。12月25日、召集解除。
- 1941年(昭和16年)3月11日、高知県農林主事補を拝命。
- 11月22日、西部第63部隊(福山)へ応召入隊。
- 1943年(昭和18年)1月15日、召集解除。
- 12月30日、豊永多津と婚姻。
- 1944年(昭和19年)9月12日、応召入隊(朝倉)。9月15日、屯営出発。9月17日、博多港出帆。同日釜山上陸。その後、南京を経て上海着。矛部隊南通地区を警備。
- 12月27日、長女・美津誕生。
- 1945年(昭和20年)3月、159飛行場大隊へ転属[5]。上海虹橋飛行場を警備。同5月22日、上海出発。6月1日、平壌到着。平壌飛行場を警備。8月15日、終戦により武装解除。
シベリア抑留
[編集]- 1945年(昭和20年)9月1日、ソ連軍の捕虜となり、三合里収容所に入る。10月26日、三合里出発。同10月28日、興南着、柳亭里収容所に入る。
- 1946年(昭和21年)5月21日、本宮に移動。6月6日、興南港出帆。6月7日、ソ連ポシェト(Посьет)上陸。クラスキノ(Краскино)収容所に入る。6月19日、クラスキノ出発。7月14日、黒海北岸タガンログ(Таганрог)着。ソ連7251収容所に入る。
- 1948年(昭和23年)6月4日、タガンログ出発。6月29日、ナホトカ(Находка)着。7月11日、遠州丸に乗船し、ナホトカ港出帆。7月14日、東舞鶴に上陸し復員。
復員以降
[編集]- 1948年(昭和23年)8月24日、高知県商工課庶務主任を拝命。
- 1949年(昭和24年)7月6日、次女・美紀誕生。
- 1950年(昭和25年)12月13日、厚生課物品取扱主任を拝命。
- 1956年(昭和31年)2月1日、高知県東京事務所総務課長兼次長心得を拝命。
- 同年10月15日、教育委員会事務局総務課長補佐に任ぜらる。
- 1957年(昭和32年)12月1日、高知県議会事務局庶務課長
- 1960年(昭和35年)5月16日、高知県観光課長
- 1964年(昭和39年)8月13日、作家・司馬遼太郎の来高にあたって、高知県観光課長として接待[4][8]。
- 1965年(昭和40年)4月1日、高知県地方労働委員会事務局長
- 1969年(昭和44年)4月1日、郷土文化会館開設準備事務所長
- 11月1日、郷土文化会館館長に就任。
- 1970年(昭和45年)3月31日、退官
退官以降
[編集]高知県商工会議所業務部長を務めるかたわら、長年に渡って執筆投稿してきた随筆を『生涯雑筆』に収録して出版。さらに続編として『続・生涯雑筆』を上梓。国府史蹟保存会会長として紀貫之邸址の整備と石碑の建立[9]。南国史談会の会長をつとめ、みずから南国市の史跡調査についての研究論文を執筆。また、「乾の大墓」の調査保存に努めた。
2007年9月18日、急性呼吸不全のため死去[1]。
その他役職
[編集]- 高知県教育映画等審査委員会委員
- 高知県芸術祭映画部門専門委員
- 高知県教育映画等選定委員
- 高知県中央公民館演劇等審査委員会委員
- 南国市文化財審議会委員
- テレビ高知番組審議会委員
- 高知県立郷土文化会館運営委員
- 国府史蹟保存会会長
著書・研究報告
[編集]- 『坂本龍馬の一族 南国市に辿る坂本・中岡両家先塋の地』乾常美著(所収『土佐史談』第170号、1985年11月)
- 『参勤交代北山道と南国市』乾常美著(所収『土佐史談』第206号、昭和43年9月)
- 『筌調査報告集』島村泰吉、橋本雄幸、小松亮、乾常美、小川真喜子、馬場俊清、上田茂敏、蕨川正重、岡本貢、小橋従道、西山晴視、榊原敏文、山下竹光、下村利彦、福吉要吉(所収『高知県立歴史民俗資料館 研究紀要』第7号)
- 『乾の大墓』乾常美著(所収『産経新聞』1966年(昭和41年)12月8日号)
- 『卵塔物語』乾常美編(所収『南国史談』第22号)
- 『生涯雑筆』乾常美著、1971年
- 『続・生涯雑筆』乾常美著、1984年
- 『捕虜の文化』乾常美著(所収『捕虜体験記(3)ウラル以西篇』ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会編、平文社、1984年(初版)、1998年(重版))
- 『第159飛行場大隊 その戦歴と追想』乾常美、園部良一編、一五九飛大会事務局、1987年
系譜
[編集]∴ | |||||||||||||||||||||||||||||||
土岐重頼 | |||||||||||||||||||||||||||||||
乾和宣 | |||||||||||||||||||||||||||||||
乾和信 | 乾宣光 | 乾和三 | |||||||||||||||||||||||||||||
乾勝益 | 乾勝次 | 乾和成 | |||||||||||||||||||||||||||||
乾猪介 | 乾永次 | 乾信勝 | |||||||||||||||||||||||||||||
乾定次 | 女子 | 乾信和 | 乾信宣 | ||||||||||||||||||||||||||||
乾和之[10] | 松田仁右衛門 | 乾時和 | 安積祥任妻 | ||||||||||||||||||||||||||||
乾和意 | 松田重正 | 乾和祥 | 乾直建妻 | ||||||||||||||||||||||||||||
乾和定 | 松田重利 | 乾和公 | 乾和強 | 乾正聰 | |||||||||||||||||||||||||||
乾和礼 | 松田重信[11] | 乾和明 | 乾和英 | 乾信武 | |||||||||||||||||||||||||||
乾和満 | 乾重眞[12] | 乾和利 | 乾正成 | ||||||||||||||||||||||||||||
乾和明[13] | 乾重定 | 乾重基 | 和田波治妻 | 板垣退助 | |||||||||||||||||||||||||||
乾和親 | 乾重光 | 乾正重 | 和田千秋 | ||||||||||||||||||||||||||||
乾和顕 | 乾重秀 | 乾重治 | 和田三郎 | ||||||||||||||||||||||||||||
(嫡流) | 乾重一 | 乾準吉 | |||||||||||||||||||||||||||||
乾季雄 | 乾常美 | ||||||||||||||||||||||||||||||
系図
[編集]∴ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
乾永次 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
乾定次 | 女子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松田仁右衛門 | 田村亦兵衛 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
女子 | 松田重正 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松田重利 | 松田政右衛門 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
女子 | 田村貞七 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
乾重信 | 田村忠次 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
手島太左衛門 | 女子 | 乾重眞 | 女子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
手島増魚[14] | 乾重定 | 乾重基 | 乾久四郎 | 女子 | 和田波治[15] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
手島太長[16] | 宮地厳夫[17] | 女子 | 乾正重 | 乾重直 | 女子 | 和田千秋[18] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
手島利魚 | 宮地威夫 | 宮地英夫 | 乾重治 | 乾大吉 | 和田三郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
乾準吉 | 女子 | 乾明扶 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
乾常美 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参考文献
[編集]- 『国府村史』竹内英省編、1961年(昭和36年)
- 『昭和萬葉集(巻五)』講談社、1980年(昭和55年)
- 『生涯雑筆』乾常美著、1971年
- 『続・生涯雑筆』乾常美著、1984年
- 『卵塔物語』乾常美編(所収『南国史談』第22号)
- 『乾の大墓』乾常美著(所収『産経新聞』1966年(昭和41年)12月8日号)
- 安井敏夫「エドムント・ナウマンに関わった高知県領石の手島医師について」『地質学雑誌』第119巻第3号、日本地質学会、2013年、222-225頁、doi:10.5575/geosoc.2012.0078、ISSN 0016-7630、NAID 130003363929。
補註
[編集]- ^ a b 『現代物故者事典2006~2008』(日外アソシエーツ、2009年)p.71
- ^ 土佐国長岡郡左右山村に籠居した松田(旧姓・田村)新九郎重正(1673年-1746年)の曾孫・乾重眞(丹七)の代に奉行所の許可を得て、乾氏に復姓した系統にあたる。
- ^ 『功名が辻』司馬遼太郎著(「醍醐の花見」の項)
- ^ a b c 『卵塔物語』乾常美編(所収『南国史談』第22号)
- ^ “『第159飛行場大隊 その戦歴と追想』乾常美、園部良一編”. 一五九飛大会事務局 (1987年5月1日). 2017年7月29日閲覧。
- ^ じんとく (2014年8月17日). “昭和萬葉集(巻五)(175)(昭和十五年~十六年の作品 ) Ⅲ(12)”. 2020年4月25日閲覧。
- ^ (意訳)「大詔を奉戴して武装を解除し、疲れ果てて大地に寝転んだままいつの間にか夕暮れになっていた。思えば応召出征して以降、はじめて深い眠りについたのだ。目覚めてみると、軍服が濡れて色が変わるほど自分が寝ながら泣いていたことに気が付いたのだ」
- ^ 1964年(昭和39年)8月13日高知の第14回夏季大学『竜馬がゆく 取材ばなし』講師:司馬遼太郎
- ^ “『巡礼四国遍路 29 国分寺』”. 朝日新聞デジタル (2016年10月29日). 2017年7月29日閲覧。
- ^ 養子。実は乾和成の外姓の従弟
- ^ 養子。実は田村亦兵衛の次男。母方は乾氏血縁
- ^ 乾重眞(丹七)の代に、乾和利(山内右近)と相談の上、奉行所の裁許を得て、乾氏に復姓
- ^ 養子。実は乾和公の次男
- ^ 土佐国長岡郡左右山村
- ^ 「山嶽社」を創始した医師
- ^ 医師
- ^ 神主・宮地重岑(伊勢守)の養子となる
- ^ “『土佐山の山嶽社』”. 高知市広報『あかるいまち』 (2006年5月1日). 2017年7月29日閲覧。