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久米義広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
久米義広
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文22年(1553年
別名 義弘?
官位 安芸守
主君 細川氏
氏族 三好氏?→久米氏
父母 三好長輝?[1]、久米鈍行?[1]
兄弟 三好長秀?、三好頼澄?、芥川長光?、三好長則[2]久米義広?
細川之持の娘(細川持隆の妹)、大原伊賀守の娘?[1]
義昌(四郎左衛門)三好実休
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久米 義広(くめ よしひろ)は、戦国時代武将細川氏の家臣。阿波国芝原城主。三百貫。

略歴

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天文21年(1552年8月、一族とされ、娘婿の三好実休が、妻の兄である阿波守護細川持隆を殺害したことに激怒し、実休を討つために天文22年(1553年)初めに野田山城主・野田内蔵助、英城主・仁木日向守高将、佐野須賀城主・佐野丹後守、蔵本城主・小倉重信らと共に軍事行動を起こした。

実休の妹婿・小笠原成助を攻撃するなどしたが、やがて三好実休が3,000兵を率いて進撃してきた(鑓場の戦い)。野田内蔵助が討たれるなど乱戦になり、義広らも討死した。

子の義昌が後を継いだ。

出典

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  1. ^ a b c 真貝宣光著『芝原城主 久米安芸守義廣(上)』p12-17が引用する『犬伏久米系図』『芝原久米系図』より。
  2. ^ 一説に元長長慶の父)も之長(長輝)の子とされている。

参照文献

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