久留倍官衙遺跡
久留倍官衙遺跡 南倉から正殿・八脚門を望む | |
久留倍官衙遺跡の位置 | |
所在地 | 三重県四日市市 |
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地域 | 三重県 |
座標 | 北緯35度00分53秒 東経136度38分00秒 / 北緯35.01483度 東経136.63322度 |
歴史 | |
完成 | 7世紀末 |
久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき)は、三重県四日市市大矢知町にある官衙遺跡。2006年7月28日に国の史跡に指定されている[1]。
概要
[編集]久留倍遺跡は、四日市市北東部にある、弥生時代から中世に至る遺構が残る複合遺跡である。久留倍遺跡のうち、古代の朝明郡衙(あさけぐんが)関連施設の遺構が残る区域が「久留倍官衙遺跡」の名称で国の史跡に指定されている[2]。
久留倍官衙遺跡は、伊勢湾に向けて東流する朝明川と海蔵川(かいぞうがわ)の間、垂坂丘陵の北東端に位置する。標高は最高所で30メートルである。1999年以降、国道1号北勢バイパスの建設工事に際して調査が実施され、朝明郡衙の遺構が確認された。このため、北勢バイパスは構造・設計を変更し、遺構が保存されることとなった[3]が、これら遺構を郡衙と断定することについては、異説も唱えられており、延喜式による朝明駅ではないかとする説も存在している[4]。
『日本書紀』672年(天武天皇元年)六月条には、同年に発生した壬申の乱に際し、大海人皇子(後の天武)が朝明郡迹太川(とおがわ)のほとりで天照大神を遥拝し、戦勝を祈願したとの記事がみえる。なお、この迹太川が現在のどの川にあたるかは確定していない。また、『続日本紀』には740年(天平12年)、聖武天皇が朝明郡に行幸したとある。四日市市内には聖武天皇の行幸に関する伝承が複数残っている[5]。
遺構
[編集]遺跡は、地形的には、郡衙の政庁があった丘陵上部の平坦面、正倉院があった東側の斜面、関連建物群があった北東の丘陵裾部の3地区に分かれる。以下、本項ではそれぞれを「丘陵上部」「東斜面」「丘陵裾部」と呼称する[6]。
遺跡内では約80棟の掘立柱建物跡が検出されている。これらの建物の存続期間、建て替えの前後関係、各建物の性格などを整理すると、遺跡の変遷は次の3期に分けられる[6]。
- I期 - 7世紀末から8世紀前半、丘陵上部に東を正面とする政庁が存在した。
- II期 - 8世紀前半から同後半、丘陵上部にI期の政庁に替わって、南正面・東西棟の長大な建物が建てられた。
- III期 - 8世紀後半から9世紀末、東斜面に正倉院が営まれた[6]。
I期
[編集]丘陵上部に政庁が建てられた。正殿とその手前左右(南北)の脇殿が「コ」の字形に並び、これらの東側正面に八脚門があった。八脚門とは正面柱間が3間で、本柱の前後に控柱が4本ずつ(計8本)立つ形式の門である。政庁区域の規模は、東西42メートル、南北51メートル、面積2,142平方メートルであった[7]。
一方、丘陵裾部にもI期に属する掘立柱建物群跡が見出される。裾部では竪穴建物跡も検出されているが、竪穴建物と掘立柱建物が同時期に併存したとは考えがたく、前者の廃絶後に後者が建てられたとみるべきである。出土土器の年代も合わせ考えると、竪穴建物は7世紀後半まで存在。裾部の掘立柱建物は7世紀末から8世紀初めに建てられ、丘陵上部の政庁はこれよりやや遅れての建立。これらの掘立柱建物は8世紀前半のうちに廃絶したとみられる[8]。
II期
[編集]丘陵上部には、東向きの政庁に代わって、南を正面とする、東西方向に長い建物が建てられた。ほぼ同規模の建物が南北2棟あり、南の建物は政庁の北脇殿の跡に建っていた。南の建物は桁行14間×梁間3間、実長は29.4メートル×6.9メートル、床面積は202.86平方メートル。北の建物は桁行14間×梁間3間、実長は30.0メートル×6.75メートル、床面積は202.5平方メートルであった。この期の建物は、後述の正倉院の建物によって削平されている。すなわち、この期の建物は正倉院よりも古く、8世紀前半から後半に存在したことがわかる[9]。
III期
[編集]東斜面に建物群と区画溝が造られる。総柱建物(建物の外周だけでなく内部にも密に柱を立てるもの)が整然と建つところから、正倉院とみられる。当初は丘陵上部まで正倉院と区画溝が延びていたが、後に丘陵上部と東斜面の間に区画溝が造られ、正倉院の区域は東斜面のみになる。建物の方位はふたたび東向きになっている。溝からは8世紀後半の土器が出土するため、この頃に正倉院が成立し、9世紀末か10世紀初めには溝が埋められ廃絶したとみられる。なお、溝からは8世紀前半以前の土器も出土するが、これは古い時期の土器が流入したものと解釈されている[10]。
遺構の位置付け
[編集]I期の建物群は、南でなく東を正面とする点が異例であるが、各地の郡衙遺跡との比較や、郡内に他に該当する遺跡がないことから、朝明郡の政庁と考えられている。II期の東西に長い大型建物については、当時「屋」と呼ばれた、土間ないし平地床の倉庫ではないかと考えられている[11]。一方で、聖武天皇の朝明行幸(740年)に際して造られた頓宮だとする説もある。740年の行幸はII期の建物の存続時期と重なることから、聖武の行幸となんらかのかかわりがあった可能性もある。北東の丘陵裾部の建物群については、官衙に付随する館(たち、宿泊施設)や厨(くりや、役人の食事を準備した建物)であった可能性がある[12][13]。
所在地
[編集]- 〒510-8034 三重県四日市市大矢知町2267-8
久留倍官衙遺跡公園
[編集]2020年(令和2年)10月11日、久留倍官衙遺跡の公園整備事業が「久留倍官衙遺跡公園」として完了し[14]、11月1日にオープンした[15]。
ギャラリー
[編集]脚注
[編集]- ^ “久留倍官衙遺跡 | 四日市市役所”. www.city.yokkaichi.lg.jp. 2020年12月12日閲覧。
- ^ 四日市市教育委員会 2011, p. 1.
- ^ 四日市市教育委員会 2011, p. 1,3.
- ^ 山中章「東海道朝明・榎撫駅小考」『三重大史学』第12号、三重大学人文学部考古学・日本史・東洋史研究室、2012年3月31日、11頁、CRID 1050001202937132288。
- ^ 四日市市教育委員会 2011, p. 5,6.
- ^ a b c 四日市市教育委員会 2011, p. 7.
- ^ 四日市市教育委員会 2011, p. 9,31.
- ^ 四日市市教育委員会 2011, p. 9.
- ^ 四日市市教育委員会 2011, p. 15,33,34.
- ^ 四日市市教育委員会 2011, p. 22.
- ^ 石毛彩子 (2010). “久留倍遺跡の正倉院”. 栄原永遠男編『日本古代の王権と社会』(塙書房) .
- ^ 四日市市教育委員会 2011, p. 33,36,37.
- ^ 『久留倍官衙遺跡』(リーフレット)
- ^ “久留倍官衙遺跡公園が完成 11月にオープン 四日市:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2020年12月12日閲覧。
- ^ “国史跡「久留倍官衙遺跡」整備公園が1日開園 四日市:中日新聞Web”. 中日新聞Web. 2020年12月12日閲覧。
参考文献
[編集]- 四日市市教育委員会『国指定史跡 久留倍官衙遺跡 伊勢国朝明郡の役所』四日市市教育委員会、2011年11月30日。
- 『久留倍官衙遺跡』(リーフレット)、四日市市
外部リンク
[編集]- 久留倍官衙遺跡(四日市市サイト) - 調査報告書、リーフレット等関係資料へのリンクあり。