北畠通城
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北畠 通城(きたばたけ みちくに[1][2] / みちしろ[3]、1849年11月19日(嘉永2年10月5日)- 1888年(明治21年)10月15日[2][3])は、幕末の公家、明治期の内政官僚・神職・華族。官選兵庫県知事、男爵、霊山神社宮司。旧姓・久我、初名・維麿(これまろ)[1]。
経歴
[編集]王政復古後、明治元年(1868年)9月、第一次柏崎県知事に就任[1]。小千谷校(現在の小千谷市立小千谷小学校)の創立にかかわった[4]。柏崎県廃止により知事を辞職し、明治2年4月10日 (1869年5月21日)、兵庫知県事に発令されたが赴任せず、同年5月19日(6月28日)に退任[4]。明治3年(1870年)3月、大阪兵学寮入寮[1]。同年12月22日(1871年2月11日)、終身華族となる[5]。明治4年(1871年)7月、村上源氏の同族である北畠に改姓。同年12月(1872年)病のため兵学寮を退寮し、その後、三等中警部心得、陸軍少尉試補などを務めた[1]。1877年6月、宮中祗候となり[1]、1884年7月、男爵を叙爵した[3]。1885年(明治18年)4月、北畠親房などをまつる霊山神社の宮司に就任した[1][2]。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 阪本是丸 著「北畠通城」、神社新報社編 編『神道人名辞典』神社新報社、1986年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 霞会館『平成新修旧華族家系大成』 上巻、吉川弘文館、1996年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 太政官「久我通城ヲ華族ニ列ス」明治3年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-024-08・太草00010100
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 北畠家初代 1884年 - 1888年 |
次代 北畠克通 |