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丹羽長国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
丹羽長国
丹羽長国
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保5年4月14日1834年5月22日
死没 明治37年(1904年1月15日
改名 保蔵(幼名)、長国
別名 五郎左衛門
戒名 長壽院殿
墓所 青山新墓地
官位 従五位下越前守従四位下左京大夫侍従、従四位上、正四位
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
陸奥二本松藩
氏族 丹羽氏
父母 父:丹羽長富、母:松尾氏
兄弟 長国稲葉正邦水野勝知矩姫
木下利恭正室、政姫戸田氏良正室、
内藤政憲正室ら
正室:戸田氏正の娘・久子
峯、稲葉正邦養女、鉏子、花子ら
養子:長裕長徳
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丹羽 長国(にわ ながくに)は、江戸時代後期の大名陸奥国二本松藩10代藩主。官位従四位上左京大夫侍従。のち子爵

生涯

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天保5年(1834年)4月14日、二本松藩9代藩主・丹羽長富の六男として誕生。幼名は保蔵。

弘化3年(1846年)12月18日、従五位下越前守に叙任する。弘化4年12月16日、従四位下に昇進する。安政5年(1858年)10月11日、父・長冨の隠居により、家督を継いだ。同年12月16日、侍従に任官する。文久3年(1863年)10月25日、上洛し、参内する。元治元年(1864年)4月9日、幕府から京都警備を命じられる。同年、従四位上に昇進する。慶応元年(1865年)9月5日、幕府から冬期の京都の警備を命じられる。

慶応4年(1868年)、二本松藩は奥羽越列藩同盟に加わり、官軍である新政府軍と戦ったが、各地で敗戦した。7月29日、二本松城は陥落した(二本松の戦い)。藩主・長国は米沢藩に逃れた。9月10日、二本松藩は新政府に降伏し長国は謹慎を命じられた。10月23日、東京の前橋藩邸に移される。12月7日、新政府から隠居を命じられた。また、領地10万700石のうち5万700石を没収された。なお、家督は養子・長裕が継いだ。

明治2年9月28日1869年11月1日)、謹慎を解かれた。明治35年(1902年)5月3日、養孫にあたる長保の死去により、家督を再び相続して子爵を襲爵した[1][2]。なお、長保は長裕の実弟であった。明治37年(1904年1月15日に死去した。享年71(満69歳没)。跡を養子の長徳が継いだ。

なお、長国の長女峯は丹羽長裕夫人、五女鉏子は丹羽長徳夫人、六女花子は丹羽長保夫人となった。

二本松藩藩主を務めた丹羽氏の墓所は、菩提寺の大隣寺(福島県二本松市)と青山墓地(東京都)の丹羽家墓所に分かれており、長国の墓は青山墓地にあったが、2024年(令和6年)に大隣寺に新たに整備される丹羽家墓所に移設してまとめられることになった[3][4]

栄典

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系譜

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父母

正室

側室

  • 田丸氏
  • 川久保氏

子女

  • 峯(長女) ー 丹羽長裕正室、生母は久子(正室)
  • 稲葉正凝室後に離縁 ー 稲葉正邦の養女、生母は田丸氏(側室)
  • 鉏子(五女) ー 丹羽長徳室、生母は田丸氏(側室)
  • 花子(六女) ー 丹羽長保室、生母は川久保氏(側室)

養子

脚注

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  1. ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、333-334頁。
  2. ^ 『官報』第5647号、明治35年5月5日。
  3. ^ 二本松藩主の墓、東京から帰還へ 今秋には完了、竣工法要”. 福島民友新聞. 2024年4月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月22日閲覧。
  4. ^ 丹羽家歴代藩主の墓を一カ所に 福島県二本松市の菩提寺・大隣寺に東京の墓所を移設統合”. 福島民報 (2024年7月11日). 2024年7月12日閲覧。
  5. ^ 『官報』第1828号「叙任及辞令」1889年8月2日。
  6. ^ 1835年生まれ。別名「都や子」とも。18歳で丹羽家に嫁ぐ。落城・逃避行を『道の記』に書き残した。

参考文献

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先代
丹羽長保
丹羽子爵家
第14代:1902年 - 1904年
次代
丹羽長徳
日本の爵位
先代
丹羽長保
子爵
二本松丹羽家第3代
1902年 - 1904年
次代
丹羽長徳