中野幹隆
中野 幹隆 なかの みきたか | |
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誕生 |
1943年 日本 長野県塩尻市 |
死没 |
2007年1月14日 日本 神奈川県横浜市 |
職業 | 編集者、実業家 |
国籍 | 日本 |
活動期間 | 1967年 - 2007年 |
ジャンル | 現代思想 |
文学活動 | ニューアカデミズム |
代表作 |
雑誌 『現代思想』 『エピステーメー』 『モノンクル』 書籍 『週刊本』 |
デビュー作 | 『日本読書新聞』 |
ウィキポータル 文学 |
中野 幹隆(なかの みきたか、1943年 - 2007年1月14日[1][2][3])は、日本の書籍・雑誌の編集者である。1970年代に『現代思想』、『エピステーメー』両誌の創刊編集長を歴任[3]、1980年代に「週刊本」を手がけた[1]。哲学書房、セーマ出版創立者・社主[1][2]。
人物・来歴
[編集]1943年(昭和18年)、長野県東筑摩郡宗賀村(現塩尻市)に生まれる[1][2][4]。
1967年(昭和43年)、日本出版協会に入社、20代半ばで『日本読書新聞』編集長を務め、1970年(昭和45年)前後に竹内書店に移籍、季刊誌『パイデイア』の編集を手がける[1][3]。1972年(昭和47年)に同社を退社し、青土社に移籍、三浦雅士らとともに1973年(昭和48年)、『現代思想』を創刊、編集長に就任する[1][3]。
1975年(昭和50年)、朝日出版社に移籍、同年、月刊誌『エピステーメー』を創刊する[1][3]。1977年(昭和52年)10月の臨時増刊号として、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著『リゾーム』を豊崎光一の翻訳を得て編集、1978年(昭和53年)4月には同誌3+4月号として、山田宏一、山根貞男、蓮實重彦の全面協力を得て特集「映画狂い」を編集、1979年(昭和54年)7月には、蓮實重彦の小説『陥没地帯』を掲載した終刊号44号を発行して、同誌の歴史を閉じた。雑誌編集と平行し、「エピステーメー選書」、「エピステーメー叢書」、対談に特化した書籍シリーズ「Lecture books」として書籍の編集も行った[1]。1980年(昭和55年)10月から1年間、毎巻矢野道雄、藪内清、伊東俊太郎らを責任編集に据え、書籍シリーズ「科学の名著」を編集する[5]。
1978年12月刊行のLecture booksシリーズ『哺育器の中の大人 - 精神分析講義』で岸田秀と対談した伊丹十三[6]を責任編集として、1981年(昭和56年)7月、精神分析をメインテーマとした月刊誌『モノンクル』を創刊、これを手がけた[1]。1982年(昭和57年)、同誌は6号で休刊、伊丹は映画監督デビュー作『お葬式』の準備に入った。1983年(昭和58年)12月には、小林康夫らが執筆する『講座=思考の関数 1』[7]、翌1984年(昭和59年)4月には五十嵐一らが執筆する『講座=思考の関数 2』を編集した[8]。
1984年6月、「ポストモダン叢書」の第1作、ジャック・ラカン『二人であることの病い』を刊行[9]、翌7月には丹生谷貴志『光の国 あるいはvoyage en vain』を「リゾーム群書」の第1作として上梓するが、同群書は同書のみに終わった[10]。同年10月には、週刊ペースで刊行する書き下ろしペーパーバックのシリーズ「週刊本」のリリースを開始する[11]。1985年(昭和60年)11月までに全44冊を編集・発行した[12]。それと平行して1985年7月には『エピステーメーII』を創刊、同年10月、書籍シリーズ「思考の響応」を立ち上げ、第1作としてマンフレッド・タフーリ『建築のテオリア あるいは史的空間の回復』を刊行、『エピステーメーII』は、同年11月に臨時増刊号、同年12月に第2号を編集を手がけて中野が朝日出版社を退社、翌1986年(昭和61年)4月の第3号の編集は赤井茂樹、装幀は鈴木成一が手がけて終刊した。
1986年3月、出版社哲学書房を創立し、社主となり[1][3]、同時に同年同月、哲学書房から蓮實重彦の1979年の小説『陥没地帯』の単行本を上梓する[1][13]。1987年(昭和62年)11月、『季刊哲学0号』、翌年1988年(昭和63年)、『季刊哲学創刊号』を編集・発行、1991年(平成3年)10月の『季刊哲学12号』まで刊行した[14]。
1995年(平成7年)10月、多田富雄らを執筆者に『季刊ビオス』を創刊する[15]。1997年(平成9年)10月には季刊誌『セーマ』を創刊する。
3年近い闘病生活の末[3]、2007年(平成19年)1月14日、右腎盂尿管癌により神奈川県横浜市内の自宅で死去した[1][2][16]。満63歳没[1][2]。同17日、同県鎌倉市・円覚寺で行われた葬儀[3]の葬儀委員長は、東京女子大学教授の黒崎政男が務めた[1][3][16]。
没後の同年9月 - 10月、ジュンク堂の新宿店、池袋店、京都BAL店等で、中野を追悼し、ブックフェア「中野幹隆という未来」が開かれた[17]。科学思想史学者・大阪府立大学名誉教授の金子務によれば、中野が哲学書房で切り開いた「印税0」の出版ビジネスモデルは「中野モデル」と呼ばれ、学術出版を行う他社でも採用されるようになっているという[3]。
おもなビブリオグラフィ
[編集]国立国会図書館蔵書検索によれば、中野幹隆名での著書は存在しない[18]。以下は編集および発行に携わった雑誌・書籍群である[1]。
定期刊行物
[編集]- 『日本読書新聞』 : 日本出版協会
- 『パイデイア』 : 竹内書店
- 『現代思想』 : 青土社
- 『エピステーメー』 : 朝日出版社、1975年 - 1979年
- 『エピステーメーII』 : 朝日出版社
- 『モノンクル』 : 朝日出版社、1981年 - 1982年
- 『季刊哲学』 : 哲学書房、1987年 - 1991年
- 『季刊ビオス』 : 哲学書房、1995年 - 1996年
- 『セーマ』 : セーマ出版 / 哲学書房、1997年 - 1988年
書籍シリーズ
[編集]- エピステーメー選書 : 朝日出版社、1977年 - 1978年
- エピステーメー叢書 : 朝日出版社、1976年 - 1983年
- Lecture books : 朝日出版社、1978年 - 1988年
- 科学の名著 : 全11巻(内別巻1)、朝日出版社、1980年 - 1981年
- 講座=思考の関数 : 全2巻、朝日出版社、1983年 - 1984年
- 週刊本 : 朝日出版社、1984年 - 1985年
- ポストモダン叢書 : 朝日出版社、1984年 - 1988年
- リゾーム群書 : 全1巻、朝日出版社、1984年(丹生谷貴志『光の国 あるいはvoyage en vain』のみ)
- 思考の響応 : 朝日出版社、1985年 - 1986年
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 哲学書房社主、中野幹隆さん(1943-2007)の軌跡、urag.exblog.jp, 月曜社、2010年2月27日閲覧。
- ^ a b c d e 中野幹隆 哲学書房創業者、企業家人物辞典、2010年2月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『ある編集者の死 (哲学書房中野幹隆氏追悼)』、金子務、『週刊読書人』2007年2月23日号掲載。
- ^ 郷土の出版人に光 塩尻市立図書館に哲学書房
- ^ 科学の名著 1、国立国会図書館、2010年2月27日閲覧。
- ^ 哺育器の中の大人、国立国会図書館、2010年2月27日閲覧。
- ^ 講座=思考の関数 1、国立国会図書館、2010年2月27日閲覧。
- ^ 講座=思考の関数 2、国立国会図書館、2010年2月27日閲覧。
- ^ 二人であることの病い ポストモダン叢書1、国立国会図書館、2010年2月27日閲覧。
- ^ 光の国 リゾーム群書1、国立国会図書館、2010年2月27日閲覧。
- ^ 流行論、国立国会図書館、2010年2月27日閲覧。
- ^ OPAC NDL 「週刊本」検索結果、国立国会図書館、2010年2月27日閲覧。
- ^ 陥没地帯、国立国会図書館、2010年2月27日閲覧。
- ^ 季刊哲学、哲学書房、2010年2月27日閲覧。
- ^ 生命、哲学書房、2010年2月27日閲覧。
- ^ a b 中野幹隆氏死去 哲学書房社主、47news.jp, 共同通信、2007年1月14日付、2010年2月28日閲覧。
- ^ 「中野幹隆という未来」@ジュンク堂書店池袋店人文書売場、urag.exblog.jp, 月曜社、2010年2月28日閲覧。
- ^ OPAC NDL 「中野幹隆」検索結果、国立国会図書館、2010年2月27日閲覧。